「真実の北海道開拓の歴史」 吉岡一門頭領 北海道へ移住
本日ブログで公開する「真実の北海道開拓の歴史」は「吉岡一門頭領(私の父・吉岡忠)」にだけ伝承された実話と資料に基づき、「吉岡総本家のあや婆ちゃん」の体験談を加えて公開します。
北海道移住に至るまでの江戸から明治時代の混乱
江戸時代末期の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて坂本龍馬に騙されて敵同士だった「薩摩藩の西郷隆盛」と「長州藩の毛利元徳」を手を組ませて「徳川幕府」を倒しました。


「毛利家」の「毛利」という苗字は、「髪の毛の一本まで金に変えて売るほど金に汚い奴につけた元商人についた苗字」なので、「蔵に米俵を隠した家紋」が与えられました。

たかが「金で南朝を裏切る」ことをしたうえに「詫び状」ひとつ送ってこないので、吉岡一門頭領は許していませんので女しか生まれないと思います。
薩摩藩は「島津忠義」が藩主でしたが、「島津」という苗字は、現在の鹿児島の下の小さい島をたくさん領地に持っていたので「島と島を繋ぐ領地」の「島津」という苗字が与えられました。
島津藩の家紋は、「市」という字を付けたほど、外国との「闇貿易」をしてお金を稼いでいた「渡来流れのヤクザの商人」なので「丸に十の字紋(市)」になりました。
土地の地名や苗字に「市」がつく場所に住む人間は、「先祖がヤクザ」か、「ヤクザまがいの商売」をして人を騙していた人たちなのでご注意下さい。

「西郷隆盛」の苗字は「西の郷士」、つまり、中国出身の強者につけた苗字なので先住民の時代から吉岡一門の部下だったので「西郷」という苗字が与えられましたが、戦いは強いが頭が足りず人に騙されやすい武士でしたので「西郷一族」は財産を失ったと思います。
西郷隆盛は江戸に入り、「武士制度を無くすことを決めた長州藩」と揉めて鹿児島県に戻りましたが、「大変申し訳ないことをした」という内容の「詫び状」と「鹿児島県の最高の伝統工芸品」を北海道芦別市常磐町の「武士の総大将である吉岡総本家」に送りつけてきましたが、「吉岡一門頭領」は許してはいませんので返事は送っていません。
「西郷隆盛の詫び状」は「吉岡一門伝承箱」に保管してありますが、送ってきた品々は私の12歳の「頭領就任式」のあとに引き継ぐ物だったのに、私の叔父(吉岡信)が私の許可なく「土地と家」を売り飛ばしたので、鹿児島県の株式会社白水館の「下竹原弘志社長」に連絡して引き取らせたので、現在は「薩摩伝承館」に保管されていることを2023年11月13日に現地へ行って確認しましたし、私が傷を付けた家具も残っていました。

長州藩と薩摩藩は300年続いた江戸幕府の15代徳川慶喜将軍に「降伏せよ!」と迫ったので、「南朝の指南役だった勝海舟」と話しあい、「江戸城無血開城」を決めました。

明治元年(慶応4年)(1868)9月8日、「明治改元の詔」が勝手に発せられ、「慶応4年を明治元年」とすることとされ、「明治政府」が始まりました。
あわせて、「南朝の明治天皇」一代に「元号を一つ」とする「一世一元の制」が定められましたが、この意味は、明治天皇に金を渡して「表向きは南朝天皇」で「裏で裏切り者の長州藩」が勝手に武士の世の中を動かした結果、世の中は大混乱になりました。
「明治政府」は1868年(慶応4年)1月に成立しましたが、18年後の1886年(明治19年)12月30日に「吉岡宇右エ門」から家督を引き継いだ「吉岡文吉」は「12歳で頭領」になった時から「明治政府のやり方では日本がダメになる」と判断し、新天地を「北海道」に決めて移住したそうです。
吉岡文吉頭領は、1851年(嘉永4年)12月29日生まれの35歳で「家督」を引き継ぎましたが、「1863年江戸時代文久3年)12歳で頭領」になるとすぐに「蝦夷地(北海道)」に小作と一緒に移住して、「田畑ができる土地」をアイヌと一緒に探し回り、1904年(明治37年)4月19日、53歳で亡くなりました。
1863年の段階で吉岡一門の頭領(南朝)が「北海道(蝦夷地)を実効支配」した証拠となり、162年が経ちます。

「吉岡文吉」の戸籍謄本には「富山県砺波郡東五位村から明治28年(1895年)3月に転籍来住」と追記していますが、明治19年の家督を引き継いだ時は、北海道に戸籍や住所を管理する場所がなかったので富山県砺波市の吉岡総本家に「戸籍預かり」にしていたそうです。
もともと「日本人の戸籍」を管理していたのは日本中の各藩の大名に「戸籍管理」を任せていた為、総務省の戸籍管理の最終判断を「吉岡一門頭領」がするのは当然なので、私が芦別市を離れる1977年まで「総務省の全ての仕事」は私の父・吉岡忠が取り仕切っていました。
「吉岡文吉」が頭領になった1863年(文久3年)には、次のような出来事がありました。八月十八日の政変、池田屋事件、薩英戦争、 長州藩外国船砲撃事件。
- 孝明天皇と中川宮(朝彦親王)が画策し、薩摩・会津両藩が加わって、長州藩と急進派公卿を追放した事件です。
- 長州藩は京都で大きな勢力を持っていましたが、この政変で京都から追放されました。
池田屋事件
- 京都の旅館・池田屋で、長州藩・土佐藩・肥後藩を中心とする「尊皇攘夷派」の志士が新撰組によって襲撃された事件です。(坂本龍馬含む)
「明治政府」ができたすぐに時は現在のように道路はなかったので、波が穏やかな時期に「富山県の海」から浅瀬が続く苫小牧市の海に入り、吉岡文吉頭領は、1863年(12歳)で小作と一緒に苫小牧市に定住したそうです。
北海道苫小牧市の地名には、アイヌ語の「ト(沼)」や「マコマイ(山奥に入っていく川)」などの言葉が由来しています
アイヌに食べ物を渡して木舟(イタオマチプ)を使い、千歳川を遡上して山を越えて芦別市まで物資と人と馬を運んだそうです。
「アイヌの知恵」はすごくて、下流から上流に木舟で登る技術を持っていたそうで、私もその技術を父から学びました。
▶️【芦別市】生まれ故郷の歴史と先人を慕う(1998年調査)


(イタオマチプ)






江戸時代の終わり頃から「南朝の武士」だったはずの「薩摩藩」や「長州藩」を坂本龍馬の裏切りのせいで「江戸幕府」が倒れ、長州藩の「明治政府(明治維新)」を立ち上げ、世の中の平安を265年も続けた「武士制度」と「全国の藩制度」を破壊しました。
- 1868年1月に天皇を中心とした明治政府が誕生する
- 1868年3月に「五箇条の御誓文」を発布する
- 1868年9月に元号を「明治」と改める
- 1871年に廃藩置県が行われる
- 江戸から東京に改称された
- 洋風建築やガス灯、洋服などの西洋の文化が急速に広まった
- 中央集権化が推進された
- 富国強兵をスローガンに近代化が推進された
明治時代には、次のような出来事がありました。
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- 明治維新の始まり
- 西南戦争の勃発
- 自由民権運動の発生
- 大日本帝国憲法の制定
- 日清戦争の勃発
- 日露戦争の勃発
- 郵便制度の導入
- 鉄道の開通
- 小学校教育の開始
- 富岡製糸場の稼働
「北海道」は3つの大きなプレートが重なり合った強固な島

国立科学博物館の調査報告
「北海道」は「ユーラシアプレート」と「北米プレート」と「太平洋プレート」の3つのプレートが重なり合った大きな島なので、中央部に「古い木が石炭」となってよく燃える「エネルギー量が高い石炭」だった為、とても高価な石炭で有名でした。


北海道芦別市の南側の山には、古い木々が「石炭」になって露天に出ていたので、「吉岡一門の資産」から金を貸して「三井銀行・三菱銀行・住友銀行」が「探鉱」を作り石炭を掘る許可を出しました。
▶️「芦別炭鉱」は1800年代から北海道芦別市にあった炭鉱です。
「芦別探鉱」の労働者は「島流し」になった「犯罪人」や「流れ物」や「エタ非民」や「第三国人」を集めて石炭を掘らせて高額な給料を渡して「日本国の戦争に勝つため」と、冬の暖房」と「工業機械」のために石炭を大量に掘り出し、日本国を「石炭エネルギー」で支えましたので、「北海道の石炭は全て吉岡一門の資産」です。
「西芦別町」と「頼城町」は「石炭の町」で日本国を支えた結果、芦別市の人口は7万5000人まで人口は増えましたが、戦争が続き「国の石炭」が足りなくなったので「赤平市・夕張市」まで石炭を掘るために穴を掘った結果、大きな落盤事故が何度も起きて人が亡くなり、人命訴訟で多額の金を払った結果、閉山になりました。
芦別炭鉱では「落盤事故」が発生し、5名が生き埋めとなり2名が死亡しましたが、私の高校の同級生のお父さんもこの事故で亡くなりました。
最終的な死者数は93人にのぼり、戦後に発生した炭鉱事故の死者数としては1963年(昭和38年)に発生した三井三池三川炭鉱炭塵爆発の458人、1965年(昭和40年)に発生した三井山野炭鉱ガス爆発事故の237人に次いで3番目の事故となった。

微生物と対話ができた吉岡一門の頭領
「私の父・吉岡忠」は子供の頃から兄弟と両親と祖父母と一緒に原野に生えている木を切り、家を建てて住み、「食べ物」を作るために毎日、小作と一緒に働き、学校もない時代でしたが、「親の教育」が素晴らしかったおかげで頭もよく芸能ごとも得意だったので、子供の頃から有名な人でした。
「微生物」と対話しながら無農薬のコメや野菜などの「食べ物」が作れるようになると、北海道大学の教授たちが我が家の米だけ特別に美味しいので調査させて欲しいとやってきて、土壌と水を持って帰り毎年、収穫後の米を与えたので、札幌市にある「農業試験場」でいろんな品種改良をした結果、多くの美味しいお米ができたので、父と私が「北海道米の名付け親」です。

南朝の武士が北海道の西側(上川空知石狩地方)に定住したあと、本州から「北朝の武士と小作達」が北海道の東側に移住してきたので、私の父が「住む許可」を与えました。
住む家を作るには「山の神に木を切る願い」が必要なので、自然界の神に通じる祈りができる私の父がアイヌと一緒に許可の祈りをして、北朝の武士や小作達の家を一緒に建ててあげました。
北海道の国立公園・国定公園は吉岡一門の資産
明治時代の地図には、「吉岡国立公園・吉岡国定公園」と名前がついていたのに、勝手に北朝の人間が変更したので、私の父と祖父が日本刀を持って「北海道道庁」に怒鳴り込みに行ったそうで、最初に付けた「北海道地図」は吉岡一門伝承箱に保管されています。

武士の証明は土地と馬と床間
代々、「武士」は食べ物を作る「田畑のご領地」を持っているからこそ「武士」なのです。
小作や商人に食べさせるのに必要な「田畑を耕す馬を持たない武士」は絶対にいません。
それに「武士」は「日本刀を飾る床間」が家にありますので、土地を持っていない、馬を持っていない、家に床間がない家は「武士」ではありません。



「北朝の明治政府」は「武士の土地や日本刀を奪う制度」を作りましたが、そのもとは「北朝武士」が勝手に作った「鎌倉幕府」の「守護・地頭職」を導入した結果です。
吉岡一門頭領の命令を無視した「北朝の武士は全員、盗人」なので、関東に住んでいる「官僚や政治家達」は代々、国民の税金を盗む奴らの子供なのです。
「盗人の子供」は、やはり「盗人」にしかならないので処分すべき人間たちです。

- 承久の乱以降、朝廷側についた荘園領主や大名主の領地を没収し、将軍の家来である御家人に「地頭」として任命しました。
- 「守護」は警察権、地頭は荘園の管理や年貢の徴収など、現代の「県知事」に近い役割を担っていました。



明治元年(1868年)から北海道中に「南朝の吉岡一門」の人間が住み着いた時代に、まだ北朝の人間が作った「北海道道庁」は完成していませんでした。
現在の赤レンガ(旧道庁)の場所に「掘立て小屋」だけあって、そこで数名が遊んでいただけでした。
1869年(明治2年) – 開拓使設置、蝦夷地を北海道と改称11国86郡を置く1882年(明治15年) – 開拓使を廃止、札幌県・函館県・根室県の3県を設置
1886年(明治19年) -3県1局を廃止し、北海道庁を設置(これはウソで外壁ができただけです)
1886年12月20日(明治19年)、吉岡一門頭領が芦別市常磐町に入り、正式に「北海道と北方領土の実効支配」が始まったので多くの南朝の民が移住しました。

北朝の武士や農家が北海道の東側に勝手に移住
北海道の東側には「北朝の人間」が勝手に住み着いて食べ物を作ろうとしましたが、うまくできないので私の父・吉岡忠に「米や野菜を作る指導をしてほしい」と頼まれたので、リヤカーに米と野菜を積んで馬に引かせて日本刀を数本持ち、もし殺されそうになったら戦う準備をして部下と一緒に帯広まで行き和合して定期的に農業指導をしていました。




















