1977年からの「防衛省の賄賂問題」の後始末
1977年(18歳)から岡山理科大学在学中に「防衛省の陸将補」となり、給料もボーナスも貰わず「防衛省のコンピュータープログラム」を自分一人で組み上げる仕事をタダでしていました。
給料をもらっていなくても「防衛省の陸将補としての仕事の責任」は自覚している人間なので、テレビで「防衛省に関わる問題」を見た時は黙っておられず、すぐに部下に電話で詳細を確認してから自分にできることは全てやりました。
「防衛省の陸海空の通信及び武器弾薬誘導システム」は私がいないと誰もわからないので、「操作やシステム問題」が起きると全て私に呼び出しの電話が来るので、防衛省のプログラムを修復してから「アメリカのペンタゴン」とテレビ電話で話して「アメリカ製武器の製造現場」を見に行ったこともあります。
1982年に「第一回 日米共同方面隊指揮所演習」が行われた時は「陸将補」として岡山理科大学の5回生(23歳)ですが、防衛省に詰めて「全ての軍事訓練の全体図を無線でサポート」していました。
「通信部門のプロ」として、「アメリカのシュミレーション作戦」の裏をかいて「アメリカ海兵隊」をボロクソにしてやったので、最後にアメリカ軍のトップが私に挨拶をすることになり、「大学生」だと知り驚かれました。
12歳で吉岡一門頭領になった時に「武士の兵法」を全て頭に入れたので、「日本軍が強かったのは武士の兵法のおかげだ」と認めさせた作戦でした。
結果的に、「陸上自衛隊」とアメリカ軍陸上部隊(アメリカ陸軍・アメリカ海兵隊)の間で行われた指揮所演習を「ヤマサクラ」と名付けたのは私の仕事の功績を認めてくれたアメリカ軍のトップの判断です。

「アメリカから買った武器や計器に問題」がある時は、「アメリカの武器製造メーカー」まで戦闘機で飛んで行き、「システム再構築と誘導プログラムの開発」もしたし、同時に「日本で作れる部品を大量に使う契約」もさせました。
アメリカ人は「手先が不器用」なので、日本の細い部品に変えたほうが「総重量」は軽くなるし、私が交渉すると「絶対に日本の部品を使いたい」と言い出すので、「吉岡一門の配下の財閥の三井、住友、三菱の関連部署」に電話して「即断即決で部品」を作らせて納品させて売上を上げて日本の武器開発の能力をアメリカに認めさせました。
1976年に起きた「ロッキード事件」をご存知ですか?
私は、芦別高校3年生でした。


「ロッキード事件」は、1976年に発覚した「アメリカのロッキード社」による日本の政界や経済界への大規模な賄賂事件ですが、田中角栄の敵だった「福田赳夫」が裏でロッキード社を動かして田中角栄を陥れたことが、アメリカ政府の官僚を追及して判明しました。

田中角栄と福田赳夫
田中角栄が亡くなる前の1993年に「政界の暴れん坊」とも呼ばれた浜田幸一氏(ハマコー)の誘いで、「田中角栄本人」に料亭で会うことになったので、「ロッキード問題の真相」を質問したこともありますが、浜田幸一議員本人に向かって「ハマコー」と呼び捨てにできるのは私だけでした。
だって、ハマコーに銀座に呼び出されて一緒に飲んだ時に「ダイエーの関東SVとしての木更津店まで毎週通って売り場の指導をしていた話」をすると、
ハマコー)「木更津は都会だ。俺の田舎は山しかないが、吉岡君の田舎はどこだ?」と聞くので、
「北海道で一番最初にお米を作った米農家で、北海道のど真ん中に「六町歩の田んぼ(18000坪)」を持っている米農家ですよ。
ちなみに、日本中の武士のトップの「吉岡一門の最後の頭領」なので、日本の天皇家を昔から支えている「男種の元」ですし、私は防衛省のトップの「特別統合幕僚長の資格」と、日本の全ての省庁の官僚のトップの特別上級国家公務員の資格」を持っていますが、全部タダでやっている仕事なのでお金はないので1円も貸せませんよ。」と言うと、
「お前!そういうことは早く言えよ!!今から田中角栄に電話して料亭で会うので付いてこい!」
と「月島の最高級の料亭つきじ 治作」で会うことになりましたが、問題を起こした政治家とややこしい話をする時にはいつも「月島の料亭」ですが、築地の最高のネタという割には、高いくせに北海道より美味しい食べ物の店はひとつ店ばかりなので、いつも酒だけ飲んでお茶漬けを食べてタダで政治家たちのいろんな問題を解決してあげていました。

田中角栄(1918年5月4日, 新潟県ー1993年12月16日)
ハマコー(1928年9月5日, 千葉県君津郡出身ー 2012年8月5日)

田中角栄:「俺は1円もロッキード社から賄賂をもらってはおらんが、勝手に一番下の若い秘書が「良かれ」と思って、ロッキード社からもらった金を自民党の誰かに回したと、あとから「早坂茂三第一秘書」から聞いたぞ。」
私)そうですか、それは残念なことをしましたね。
もし、先に私に電話を1本くれれば、ロッキード社の問題も内部に顔が聞くのでマスコミにも出ないようにできたし、逆に「福田赳夫」を陥れるのは簡単なのに、お会いするのが少し遅かったようですね。
と笑顔で伝えておきました。
驚いた顔をした田中角栄首相は、自分の無知を恥じたようで、「最後に俺に親子盃をくれ!」と頭を下げて頼んできたので、生い先短い人だからこそ、初めて政治家に「親子盃」をあげたほどいい男でしたが、隣の部屋にいた田中真紀子も驚いていました。
注)田中真紀子はいつも思いつきで問題発言をするし、嘘をつくし、嘘泣きが得意なので「更迭」したのは私です。

「田中角栄は秘書のミスも自分のミス」と自分で被り、一言もマスコミで文句を言わずに亡くなった潔い政治家だったので、1993年12月16日に亡くなったあと自宅のお葬式にも行って焼香してきました。

田中角栄を支えた第一秘書の「北海道出身の早坂茂三さん(1930年 – 2004年)」を「TBSの時事放談」に出てもらう交渉をしたのも私です。
「田中角栄首相が語らなかった真実の思いを語る場」を作り、「田中角栄首相から本音を聞いた最初で最後の一人なので、「私の恩返し」だからお願いします!」、と無理やり早坂茂三さんにテレビに出てもらいましたが、TBSの社員がビビるほど「所作に厳しい人」なので、どの政治家よりもヤクザよりも迫力がある人で、「目を見て話す本気の人」でだからこそ、TBSの砂原幸雄社長も絶対に私では呼べない人だと驚かれました。


早坂茂三第一秘書 1930年6月25日, 北海道 函館市生まれ 死去: 2004年6月20日
https://youtu.be/7BvsVi5DC5Q?si=IqZxG7u6T0i7UaMq
ロッキード事件が問題になった1976年当時の防衛省のトップは、「南朝を裏切った薩摩藩の鮫島博一第9代 統合幕僚会議議長」なので、大学1年生だったので詳細を聞こうとした時に逃げたので、私が軽く脅して説得して、1977年(昭和52年)10月20日に「自分で辞表を書いて退官」してもらうようにさせました。
退官後は、財団法人水交会会長、石川島播磨重工業顧問になって悠々自適に暮らしていたので、「南朝のトップ」として石川島播磨重工業の役員たちといろんな知り合いを通して「汚職の原因」を追求させてから、自分がもらった賄賂は全て没収して日本銀行に戻させて二度と悪いことをできないようにしてやりました。
-
ロッキード社製レーダー採用への圧力:アメリカ国防総省傘下の「ミサイル防衛庁」が、ロッキード・マーチン社製のレーダーを採用するよう防衛省に圧力をかけていたことが報じられました。
-
説明責任の欠如:防衛省は、レーダー選定の公平性や費用について、十分な説明をせず、「野党合同ヒアリング」や国会答弁でも、具体的な根拠や金額を明らかにしませんでした。
-
疑惑に対する批判:専門家からは、ロッキード社製レーダーが本当に性能で優れているのか疑問視する声や、米海軍との議事録の公開を求める声が上がりました。
-
総額9000億円超の報道:イージス・システム搭載艦の総費用が9000億円を超えるという報道がありましたが、防衛省はこれを否定せず、実際には1兆円を超える可能性が指摘されました。
-
現場の負担:一部の自衛隊関係者からは、現場が望まない兵器の導入によって、将来にわたって負担を強いられることへの懸念の声も上がりました。
ダグラス・グラマン事件(ダグラス・グラマンじけん)とは、1979年に発覚した日本とアメリカ合衆国の軍用機売買に関する汚職事件(私は当時20歳の大学生)。
概要
1979年1月4日、アメリカ合衆国の証券取引委員会(SEC)は、グラマン社が自社の早期警戒機(E-2C)の売込みのため、代理店の日商岩井(現双日)を経由して、日本の政府高官らに「不正資金(賄賂)」を渡していたことを告発した。
注)「日本の商社」は外国からの物品を買うために「吉岡一門頭領」が作らせた会社なので、日商岩井(双日株式会社)には「武器売買の賄賂責任」を取らせて世界の取引を制限しました。
これを受けて東京地方検察庁の特別捜査部も捜査を開始、先行するロッキード事件で捜査を指揮した吉永祐介が特捜部長、同事件で重要な証言を得た村田恒が主任検事として捜査に臨んだ。
特捜部においては、ロッキード事件の際に軍用機であるP-3Cの疑惑追及を断念し、民間機であるトライスターへの追及に絞ることで「田中元首相の検挙」という成果を挙げた一方、軍用機を巡る疑惑を棚上げする形になったことが反省されており、村田恒は、今回は軍用機のみを追及できるということで捜査陣の士気は高かった、と回顧している。
当時、日商岩井の海部八郎副社長が率いる航空部は、航空業界でも「海部軍団」としてその名を轟かせるほどのやり手として知られており、金に糸目をつけない手法で売り込みを成功させているとも噂されていた。
村田主任検事は自ら海部副社長の取り調べにあたっていたが、調書の大部分は、「E-2C早期警戒機」よりむしろ「F-4E戦闘機」に割かれており、その売り込みの一環として、1965年頃に松野頼三 前防衛庁長官に5億円を支払っていたことが判明した。

また1965年7月24日に海部副社長が川崎重工業の社長に宛てて記したメモでは、その前日にサンフランシスコを訪れていた岸信介元総理と懇談し、マクドネル・ダグラス社の社長を引き合わせるとともに、2万ドルを渡したことが記されており、これは「海部メモ」として国会で問題になった。
ただし、村田主任検事の取り調べに対して、海部副社長は、岸元総理とマクドネル・ダグラス社社長を引き合わせたのは事実だが、実際には現金の授受はなく、川崎重工業坂出工場の建設を巡る商談のためのハッタリとして、「川崎重工業の社長に嘘の手紙を書いた」と述べていた。
注)岸信介元総理本人に、「嘘を言えば安倍晋三を首相にするのは辞めますよので、自分で真実を調べて検察に全て伝えて下さい!」と言ったので、岸信介元総理本人が自分から政治の闇と防衛省の賄賂問題を調べてくれた結果、私に嘘を言う政治家は「政治生命が無くなる」とは有名になりました。

海部副社長は、このメモについての国会での証人喚問において偽証をしたとして、議院証言法違反で有罪となった。
一方、海部副社長の直属の部下として軍用機ビジネスに携わってきた島田三敬常務取締役の取り調べを行ったのが、宗像紀夫検事であった。
島田常務への取り調べは全部で6回行われており、6回目となる1979年1月31日の取り調べでは、田中角栄を含む6人の政治家に対して「領収書を取らない裏の献金」を提供したことを明かしていた。
岸信介元首相の働きで「アメリカと日本の官僚」がお互いの国の企業から多額の賄賂をもらっていることまでわかったので、政治生命を賭けて官僚の賄賂問題を追求してくれた岸信介元総理は良い政治家だったので、1987年8月7日の自民党葬儀にも出席して焼香をさせてもらいました。


川崎重工業の島田常務は「明日、更に詳細を話す」と述べてその日の取り調べを終えたが、同日深夜に赤坂のビルの7階から飛び降り、翌朝死亡した状態で発見された。
注)知り合いのヤクザを通して調べさせると、「弘道会の司忍の指示」で、「ビルから飛び降り自殺に偽装」したことは確認できましたが、当時はよくあることだし、問題になる人間はヤクザに金を渡して自殺に見せかけるのが普通だったので、「家族に保険が降りるからいいんだ」と口にする政治家はたくさんいました。
警察に調べに対して「捜査が甘い。真実はこうだ!」と私が電話をしたので、島田常務は飛び降りる前に受傷しており、また部屋が荒らされていたなど異常な状況であったことから「謀殺の疑い」も持たれ、最終的には自殺と断定されたものの、その後も「他殺説の主張」は残っている。
「島田常務の死」によって核心部分は解明されず、政治家への追及は「時効」で断念され、裏金の一部を日商岩井の幹部らが私的に横領したことが事件化されたのみとなった。
松野前防衛庁長官は国会の証人喚問を受けて、「5億円の受け取り」を認めたものの、これも時効を過ぎていたほか、合法的な政治献金として認識していたとの主張もあって、訴追の対象にはならなかった。
注)日本の裁判に時間がかかる理由は、時効を過ぎるまで長引かせる政治家事件が多いし、「政治家が裁判官に電話」をすれば、ヤクザを使って裁判官を脅す政治家もたくさんいるので、「やりたい放題の政治家の裏」をかいて調べるのは、私は得意でした。
いつもいろんな政治家たちから電話が来て「裏の情報を教えるので例の件を内密にして下さい」と言ってくる政治家にろくな人間はいないので、自滅するように「いろんな手」を使って陥れてやりました。
政治家がマスコミを金で買収して、事件として新聞やテレビに出ないようにするのは「普通」なので、週刊誌や月刊誌に裏から情報を流してやれば、汚い政治家を陥れるのは簡単です。
ニセの情報で政治家を脅す「エセブン屋」を何人も仲間に引き込めば、上手に政治家を動かして情報操作できるのでよく「ハニートラップ」を仕掛けられた政治家を助けて「貸し」を作っていました。

「防衛省の賄賂疑惑の対象」となった各機種のうち、「E-2C早期警戒機」は昭和54年度での導入が決定された。

本事件を受けて関連予算の執行は保留されていたが、1979年7月12日、「執行保留を解除することが妥当」との両院議長の判断がくだされて、事業が本格的に開始されることになった。
9月4日には第1次契約分4機のFMS調達が成立、アメリカでの技術審査を経て、1983年1月27日には航空実験団が1・2号機を受領した。
一方、「F-4E」については、第3次防衛力整備計画に基づく次期主力戦闘機(第2次F-X)の候補機種となっており、1968年11月1日に首相の了承を受けて採用されていた。
なおこの前に、第1次防衛力整備計画に基づく次期主力戦闘機(第1次F-X: F-86後継機)計画の際にも、1958年4月14日に一度は「グラマン社のF11F」の採用が内定したにもかかわらず、8月22日の衆議院決算委員会において不正疑惑が提起されて選定が先延ばしされ、疑惑は立証されなかったものの、結局はロッキード社のF-104に変更されたという経緯があった。
注釈
- 岸元首相への事情聴取は実現しなかったが、その舞台裏について、朝日新聞は「岸氏の喚問に応じることは、ロッキード事件で逮捕された田中元首相に続いて「二人目の元首相を“きず物”」にすることになるからだ。それは、自民党全体のイメージダウンにもつながる」と解説をした。
- また、当時、朝日新聞の首相官邸記者クラブ担当だった国正武重は、後に、評論家・立花隆との対談で「大平首相サイドからは、ロッキード事件に続いて「ダグラス・グラマン事件で政権」の中枢が揺らぐようなことになれば保守政権にとっての危機だ、それだけは勘弁してくれという趣旨の動きが、検察の最高首脳や法務省サイドに対してあったと思う。
- このことについては、大平さんも、当時、それに近い胸のうちを吐露したことがある」と語っている。
注)有名な政治家が急に亡くなる時は、必ず、裏でヤクザが関わっているか、アメリカか中国のの毒で殺されるのが普通なので、「良い政治家」を探すのは難しいし、「郷に入っては郷に従え」の政治の世界には闇しかありません。
-


- さらに、事件当時の法相・古井喜実は1983年2月のインタビューで、『事件のカタを早急につける必要があったからね。
- ただ、ロッキード事件のような大物(田中元首相)が、この事件にもかかわっているのかどうか、問題になった。
- もし『超大物』がかかわっている兆候があれば徹底的にやって、何としてでもやっつけなければ、ということになった(中略)。
- ニオイはした。事件にもなりそうだった。しかし『超大物』を事件の枠内にはめこむことはできなかった。結局『超大物』は捨ててしまい、松野頼三君でとめた』と語っている。
- 当時、三井物産がマクドネル・ダグラス社の日本での代理店となっていたが、海部副社長は、F-4Eの売り込みについては日商で代理店契約を獲得することを狙っており、そのためにマクドネル社に対して政治的コネクションを誇示する狙いがあった、と述べていた。

C-1輸送機
- 「航空自衛隊の早期警戒機」としては、従来は国産のC-1輸送機にフェーズドアレイレーダーを搭載する案などが検討されていたが、1972年夏のニクソン大統領と田中首相との首脳会談において、P-3C哨戒機とともに「E-2C」の売り込みが図られたことで、アメリカ機の導入に転換したと言われている。

- 日本の使用目的に応じて核管制装置や爆撃計算装置の撤去などの改修が行われることになり、この改修を行ったF-4Eを「F-4EJ」と呼称することになった。
これだけの事件を見ても日本の防衛省幹部と防衛大臣の癒着は、昔からの慣習なので、私はボロクソに文句を言って脅しても結局、アメリカの官僚や政治家も金を渡すので、「ニクソン大統領」にもボロクソに言ってやりました。

1977年に大統領になったジェームズ・アール・カーターにもボロクソに言ったので、アメリカ大統領が変わるたびに「よろしくお願いします」と電話きていたほど私は「アメリカの要人」からも恐れられていた人間です。


中国鄧小平主席とジェームズ・アール・カーター大統領
「私の存在」はいくら秘密にしていてもいろんな人が囁くので、ジョン・ボルトン大統領補佐官が、「オバマ大統領に私を合わせたい」言うのもわかると思います。


官僚の指定する店を無視して「安い居酒屋」に行ったほうが本当に美味いものは見つかるよ!と事前に教えたのは私です。
現在は、「二人目のトランプ大統領」になったので、「前回のトランプ大統領」と私は「ある約束」をしているし「契約書」もあるので、知らないと困るのはトランプ大統領のほうだと思います。
さあ、これからアメリカの「トランプ大統領も辞める」ことになるし、日本の「石破首相も辞める」ことになると思うので、次に世界を導くのはどこの国になるのでしょうかね?
誰が世界を裏から動かしているのか探していた時に、「世界の支配者マーゴ」に会ったので、いろんな対策を映画からヒントを得て対策しておきましたが、2025年に何が起きるかなんて神様じゃないので誰もわかりません。
この世で起きることは、全て「自業自得の自己責任」なので自分の問題は自分で解決して下さい。





