私は1988年(29歳)から「ダイエー労働組合の中央執行委員」 だったので、自動的に、「ゼンセン同盟(UAゼンセン)の評議委員」 と「民社党の評議委員 」に なりました。
「民社党」 は名前のとおり、日本中のサラリーマンを束ねる政党だったし、1990年代のゼンセン同盟のトップは「ダイエーがトップの流通部会」 が売上1位で牛耳っていたので、国会議員たちもサラリーマンの組合員の投票数を左右する「労働組合の中央執行委員」 を誰よりも大切にするので、定期的にお互いの情報交換をお願いされる接待をよく受けました。
理由は、「労働組合の中央執行委員」だけが、年に一度、従業員の給料を決める「春闘」で会社の経営者や役員に本音で文句を言える立場だし、ダイエーの妥結率は「日本中の春闘の妥結基準」になるので、「ダイエー労働組合の中央執行委員」だけは、常に「特別待遇」でした。
なぜか私だけ、どこの会社の組合の委員長から「春闘の話し合いに出席してほしい」 とお願いされる理由は、問題点を徹底的につく論理的思考を持っているし、言葉でも喧嘩でも負けたことがない人間だったからです。
「組合の仲間」なので、時間ある時にはいくつもの会社と組合の春闘の席に出て、会社経営の甘さを徹底的につくのが得意だし、一部上場企業の会社は「札幌の社長会」の知り合いなので、すぐに噂は広がり、私が「春闘の会議の場」に出るとわかった段階でほとんどの組合の要求額は「組合の要求どおり1発回答」 になりました。
その分、「中央執行委員の仕事も付き合い」もたくさんありますし、従業員の不平不満を聞いてすべて対処したし、どこの会社の人事課長も社長も、「ダイエー労働組合の中央執行委員だけには逆らえない立場」 だからこそ、「自民党の自公民連立政権」の時には、「自民党」も「公明党」も「ダイエー労働組合」だけは一目置かれる立場でした。
「労働組合の仕事」 は、1992年10月に「3年間の任期」を終えて辞めましたが、どこの政党の国会議員にも私の顔が知られているので、いろんな政党に分かれた国会議員たちから電話が来るので、「首相専用裏番頭」 に仕事を絞り、必要な時に必要な人と人のつながりを繋いであげるのが私の仕事でした。
▶️民進党を離党した国会議員一覧
ここからの記事は転載ですが、「日本の政治をどう見るか?」のひとつのポイントとして必要な視点なので、紹介しておきます。
政治に興味がない人でも「税金」は取られるし、「日本の法律」を作れるのは「国会議員しかいない」ので「日本国民」として正しい政治経済の勉強くらいはして下さい。
人によって物事の捉え方や考え方は違うし、さらに「宗教に影響された人の発言はややこしい」 し、「共産主義者は頭が悪い感情的な人が多い」 ので、共産党員は日本の政治家へ文句を言いたい人たちの「吐き出し口政党」 だと思っています。
企業や組織にも同じよう「に不満を受け取る受け皿の人間は必要」だし、その不満の受け皿を首にすると次の受け皿が自然にできるので、「札幌の社長会」の社長達にも「残すべき社員」と「首にした方が良い社員」の基準を教えたことがあります。
昔は「自民党内部の派閥争い」が多くていつも「裏金」は飛び交うし、敵を落とすための作り話をマスコミに流すので、陰で殺された秘書や首を括ることになった「政治秘書」もたくさんいた時代です。
国会で偉そうに話す国会議員よりも「親しい秘書達」はたくさんいるので、自民党だけでなく全ての国会議員の「優秀な秘書の隠れネットワーク」 も作ったし、「裏で勉強会」を実施して「選挙で勝つための方法」と、「ハニトラップに合わない方法」と、「マスコミ報道される前に問題を抑え込むコツ」をタダで教えてあげて自民党を支えました。
全ての政党の秘書達と情報交換すると、自然に裏金の流れや金額も聞こえてくるので、私はただ「もっとこうしたほうがいいもっと有利に選挙で勝てるよ」とアドバイスするだけですが、その情報の裏事情も教えてあげるので、自然に全ての政治家を裏で動かす立場になってしまいました。
自民党のやり方に文句ある政治家は「自分で仲間を集めて新しい政党を作れ!」と教えたので、今は、「麻生派閥」だけになり綺麗な状態になったので、自民党議員同士の殺し合いは無くなりました。
いつも自民党に問題発言をする「共産党の志位委員長 」にも直接会ってハッキリ今までの問題を全て伝えたし、「もし天皇」について左翼的発言をしたら、今までの悪事を全てマスコミに公開するし、そのあと「処分する」 とだけ伝えておいたので、2024年1月18日に辞職しました。
「天皇家はすべて吉岡一門頭領の種」なので、「私の親族であり先祖」なので、「先祖を汚す人間」を私は許しません。
Japan’s Emperor Naruhito, right, and Crown Prince Akishino wave during a greeting ceremony at the Imperial Palace in Tokyo, Japan, on Saturday, May 4, 2019. Naruhito ascended the Chrysanthemum Throne in a low-key ceremony on May 1, taking over his father’s duties to serve as the symbol of a nation facing slower economic growth and an aging population. Photographer: Kiyoshi Ota/Bloomberg
私は1989年から「キャリア官僚」の仕事をしていたし、1991年にはすべてのキャリア官僚をまとめる資格を正式にもらっていたので、実際に政治家がどう動くのか、バカな政治家をどう動かすのかを指示命令する立場なので、評論家や論説委員が好き勝手なことをテレビで話しているのを見ると吹き出してしまいます。
日本の政治家も、キャリア官僚も、防衛省も、首相も、全ての人を動かすには「軍資金」 が必要だし、私は一切、賄賂も給料をもらっていませんが、裏の裏から日本を動かすのが「吉岡一門頭領の仕事」なのでほとんど電話で指示を出し、ややこしい奴は私が直接、会って話すので、防衛上でも外交上でも1991年から日本が外交上で大きな問題になることは起きないようにしていました。
当然、民社党の国会議員たちとは知り合いですが、 1993年7月の第40回衆議院議員総選挙で自民党が過半数を割り、同年8月、社会・新生・公明・日本新・民社・さきがけ・社民連・民改連の8党派による「 細川内閣 」が発足して「民社党は初めて与党」 となったのに、「羽田内閣 」でも大内が厚相に留任したが、発足直後に社会党が連立政権から離脱し、羽田内閣は少数与党政権に転落。
わずか2ヶ月で退陣に追い込まれ、「 自社さ連立政権の村山内閣発足」により、民社党は10ヶ月で野党に転落しました。
旧民社党系勢力は、「新進党」 への合流にあたり、新党に社会主義インターナショナルへの加盟を求めたものの却下され、 戦後史は日米関係の駆け引きの歴史であり、「対米追従路線」VS「対米自立路線」の政治ドラマでもありました。
民主党は、戦後からの悲願だった「自主独立」路線をめざした政党だったが、それがうまくいかなかったのはなぜだろうか?戦後70年の節目に考える、日本の国家としての自立とは?
夢に終わったユニーク政策――鳩山由紀夫
2009年8月30日、事実上の任期満了選挙に追い込まれた麻生自民党は、衆院選で惨敗し、前回の“小泉劇場”郵政選挙で稼いだ300の議席を、119にまで減らした。逆に前回の115議席を、308議席というとてつもない数にまで伸ばした民主党 が、ついに結党以来の悲願であった政権交代を実現したのだ。
国民の多くは、小泉政権に感じた爽快感が、実は政権交代の気持ちよさに似ていることに気づいていた。でもその後の安倍・福田・麻生で、また自民党は昔に戻ってしまった。 これでは物足りない。そんななか、民主党待望論が出てくるのは、ある意味当然だった。
この選挙圧勝劇を受け、2009年9月16日、国会は民主党党首・鳩山由紀夫 を首班指名し、ついに鳩山は第93代内閣総理大臣となった。鳩山由紀夫といえば、元首相・鳩山一郎の孫 だ。
鳩山一郎は対米追従型からの脱却をめざした人だし、孫の由紀夫も「追従だけでなく、独立国としての気概を持たなくてはならない」と毎日新聞のインタビューで答えている。
これは変革の予感がするぞ――国民の期待は高まった。実際国民の鳩山内閣に対する期待は高く、共同通信社の世論調査によると、発足当初の内閣支持率はなんと72%にまで達した。
しかし結論から言うと、鳩山の政権運営は、ことごとく失敗に終わった。「政治主導 」を打ち出して官僚にコントロールされる政治を嫌ったまではよかったものの、実際にやってみると、官僚との根回しをまったくしない政治は、想像以上に難しかった。
しかも鳩山の政治スタイルは、党内での意見調整もないままいきなり自らの構想を国民に示すものが多かったため、同じ民主党内からも不満が噴出した。
結局、彼が示した構想の数々は、しばしば「突発的」「独断的」「狙いがわからない」などと酷評されることとなり、最終的には「首相の思いつきの政策を、誰も支持しない」形になることが多かった。
そのため、鳩山内閣はどんどん支持率を下げ(2010年5月には19.1%にまでダウン)、最終的には辞任に追い込まれることになる。しかしそこで示された政策は、アイデアとしては実はとても面白いものばかりだったのだ。
まず鳩山は、2009年9月にニューヨークの国連本部で開かれた国連気候変動サミットに出席し、そこで「CO 2の25%削減案 」を打ち出した。普通に考えれば、こんなけた外れに大きな削減目標、環境税の導入や排出権取引(各国に割り当てられた削減数値目標の%の売買)だけで、実現できるわけがない。
しかし鳩山は、そこに「原発の積極稼働 」で現実味を持たせようと考えたのだ。確かに原発は、化石燃料を燃やす火力と違い核分裂エネルギーで発電するから、CO2を出さない。つまりはクリーン・エネルギーだ。ならその稼働を最大限高めていけば、CO2の25%削減は夢ではないはずだ。
しかしこの構想は、夢と終わった。2011年に発生した東日本大震災で、原発の積極稼働など不可能になってしまったからだ。2012年12月、自民党政権に移ったことで、この「25%構想」は完全に撤回された。
新しい日米関係を求めて――自主独立構想
次に鳩山は、外交面で従来の自民党とは違ったユニークな方向性を打ち出した。“友愛外交 ”に基づく「東アジア共同体 」構想だ。
友愛外交とは、価値観の違う国々と、互いに尊重し合いながら共存共栄を図っていこうという鳩山内閣の外交方針だが、それに基づく東アジア共同体とは、日中韓で集団安全保障体制や通貨統合まで視野に入れたEU型の共同体を形成することで、東アジアにアメリカ・欧州に匹敵する第三極をつくり、それを足がかりに対米従属から徐々に脱却し、対等な日米関係を築いていこうというものだ。
もし実現したら、日本が対米追従路線と決別するきっかけにもなりえる面白い案だ。しかも時期的に2009年という時期は、ちょうどリーマン・ショックとギリシア問題で欧米という大巨人の足元がふらつき、かわりに中国が台頭してきた時期だ。
もし日本が本気でアメリカと決別したいと考えるなら、タイミング的にも絶妙と言えるだろう。
ただしこれを実現するには、3ヵ国の間に今なお根強く残っている歴史認識の問題 、そこに端を発する反日感情の問題、それから日米同盟弱体化を狙っているフシすらある中国の軍事的脅威の問題など、課題は山のようにある。
結局、鳩山の提唱した東アジア共同体構想は、具体化の動きを示す前に鳩山が辞任してしまい、フェードアウトしてしまった。
なぜ普天間基地は移設できなかったのか?
そして、その辞任への流れを作る不人気のきっかけになったのが、「普天間飛行場の移設問題 」だ。鳩山はマニフェストにこそ書いていなかったものの、自分たち民主党が政権をとったあかつきには、沖縄にある米軍普天間飛行場を「最低でも県外、できれば国外 」 に移設したい旨を、選挙時発言として行っている。
もともと普天間飛行場には1990年代半ばから“県内移設案”があり、1996年にはその受け入れ先が「名護市辺野古」に決まっていた。しかし鳩山は、それを県外か国外に移そうという。これがもしうまくいけば、政治主導で初めて沖縄問題に大きく日本の意向を反映させた例になる。成功すれば、アメリカからの自主独立への大いなる第一歩だ。
ただこの問題は、鳩山の強調する「政治主導」で解決するには、あまりにも大きすぎた。実務面を担っている官僚との協力・根回しもなく「米軍基地の移設」などという巨大な壁に立ち向かうには、鳩山民主党はあまりにも与党として若かったのだ。
しかも鳩山には、欠けていたものが二つあったように見受けられる。
一つはアメリカと対等に交渉するのに必要な“駆け引き材料 ”、そしてもう一つは、現行安保体制にかわりうる“新しい安全保障政策のビジョン ”だ。
正確に言うと、この二つがつながりを持ったものになれば、アメリカは大いに動揺し、日本の言うことを聞いてくれた可能性が高い。
つまり、「もしアメリカが普天間基地を県外か国外に移設してくれないなら、日本は今後、中国と手を組むぞ」という“脅し”だ。
アメリカの腰巾着にすぎない日本が、アメリカを困らせられる脅しがあるとすれば、それだけだ。
つまり「本気で中国と組んで新たな安全保障システムをつくるぞ!」というブラフを全身全霊こめてかますことだけが、アメリカを慌てさせ、日米関係を“追従型”から“対等”にできる唯一の切り札だったと思う。
もちろんそんなこと、本気でやるとは思えない。
そんなことをすれば、今まで味方だったアメリカと、今後は険悪でよそよそしい間柄になる。
それにそれをやれば、僕らの生活はハリウッド映画やメジャーリーグやMTVやグーグルと縁遠くなり、かわりに『赤いコーリャン』や太極拳や海賊版音楽や百度(バイドゥ)と親しむことになる。
ここまでアメリカナイズされた生活に親しんでしまった僕らに、いきなりそんな生活への転換ができるとは思わない。
でもだからこそ、「本気でそれをするぞ」という覚悟を示すことが、大いなる力になる。その意味でいうと、この移設案を本気で成功させたかったのなら、「東アジア共同体構想」 とセットで(しかも両方とも本気で)取り組まなければならなかったことになる。
というより、もともとこの東アジア共同体構想を聞いたとき、僕は「あ、鳩山政権は中国シフトでいく気なのか」と思ったぐらいだから、やるならやる、やらないならやらないと、いずれにしても本気度を示して行動を起こさないと。
それをまさか「東アジア共同体構想を示すだけで、アメリカは動揺するはず」などと思ったのなら、それは見通しが甘すぎだ。アメリカぐらい貫録たっぷりのボスになると、そんな空手形ぐらいでいちいち動揺したりしない。
結局、鳩山の示した程度のブラフではアメリカは動揺せず、鳩山はその後、移設先に苦慮することになる。
その後「腹案がある」と言って出してきた徳之島案も地元自治体にフラれ、最終的には2010年5月、元の「名護市辺野古案」に戻してしまった。
これにより、国民は鳩山を「できもしない夢物語で県民をその気にさせておきながら、結局状況を引っ掻き回しただけで何も実現できなかった嘘つき」ととらえ、大いに失望した。
民主党はこのままでは7月に迫った参院選を戦えないとする声が高まり、鳩山は辞任した。このあたりから、民主党に対する国民の目は厳しくなっていった。
ピークを過ぎて首相になった男の悲劇――菅直人
菅直人
鳩山辞任後、首相の座を引き継いだのは「菅直人」だった。菅はもともと学生運動・市民運動出身の政治家で、初当選のときは社会民主連合(社民連)に所属していた。
その後は一九九四年に社民連が解散したのを受けて新党さきがけに所属し、そのときに橋本龍太郎の「自社さ連立内閣」で厚生大臣として初入閣して、薬害エイズ問題やO157問題に積極的に取り組む姿勢で名を上げた。
「薬害エイズ問題」では、菅自身が大臣として厚生省内の内部調査を陣頭指揮し、エイズ研究ファイルを発見して非加熱製剤の危険性を国が認識していた事実を突きとめ、改めて国の責任を認めて被害者家族らに謝罪した。
また「出血性大腸菌O157の集団感染問題」では、厚生省が「カイワレ大根が感染源」と発表したことで生まれた風評被害を払しょくするため、菅自らがカメラの前でカイワレサラダを頬張ってみせるというパフォーマンスを披露した。
とにかく、この厚生大臣時代の菅は「かっこいい」の一言に尽きた。学生運動出身の野党気質の正義漢が与党政治にピッタリはまると、こんなにも気持ちがいいものなのかと、国民の多くは感動すら覚えた。菅の人気は日に日に高まっていった。
その後、菅は鳩山の民主党旗揚げに参加し、鳩山とともに党の共同代表となった。その後も何度か代表に就任し、2003年には小沢一郎の民主党との合併などを実現させたが、その翌年の2004年、小泉内閣閣僚の「年金未納問題」あたりから、かつてのかっこよさのイメージはなくなっていった。
これは菅が、未納期間のあった三閣僚(中川昭一・石破茂・麻生太郎)を「未納三兄弟 」と呼んで厳しく追及している最中、自らが4人目の兄弟と発覚して代表を辞任し、頭を丸めて“お遍路さん”になった事件で、菅代表はこれで相当国民からの人気をなくした。
しかし、党内での影響力は残し、2006年に民主党代表となった小沢一郎を鳩山・菅で支える「トロイカ体制 」の一翼を担いつつ、今回の首相選出となった。
こう見ていくと、菅には首相就任時、すでに厚生大臣だった頃の人気はなく、その意味では首相就任は新鮮味に欠け盛り上がらなかった。
しかし、主要スタッフを“反小沢” の枝野幸男 (幹事長)や仙谷由人 (官房長官)で固めたことが国民から評価され、内閣支持率は発足当初は61%、最高で65%と高い支持を得た。
しかしその後、消費税増税案が国民の不興を買って7月の参院選に惨敗し、衆議院とのねじれ現象を作ってしまった。その後、9月には尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件 で中国漁船の船長を釈放したことで支持率が急落し、2011年3月には東日本大震災 で危機管理能力の甘さを露呈し、さらには自民党の谷垣禎一 総裁に入閣要請したことが指導力の弱さととらえられて、支持率の伸び悩みに苦しむ。
その後は首相を「辞める・辞めない」と発言が二転三転して内閣支持率は2011年7月には最低の16%を記録し、ついに8月、辞任した。
どじょう内閣の迷走――野田佳彦
野田佳彦
菅の後を引き継ぎ内閣総理大臣に就任した野田佳彦 は、民主党代表選の演説で自らを泥臭いどじょうに例えたことで「どじょう内閣 」 と呼ばれた。
これは、不人気でも泥臭く国民のために汗をかいていきたいという決意を表した言葉だ。
日本新党結党に参加して衆議院議員となった野田は、その後「小沢一郎が作った新進党」に参加した後民主党に参加し、菅内閣では財務大臣に就任した。
国民的知名度は低かったが、むしろそれが新鮮な印象を与え、民主党への不信感が高まるなか、国民から好意的に受け入れられ、内閣支持率は発足当初62%と上々だった。
最初野田は、震災対策に取り組み、その復興財源の調整や原発対応などに尽力した。しかしその後、消費税を段階的に10%に引き上げる案を示したあたりから、野田内閣への批判が始まった。確かに税収不足と震災対応で財源不足は理解できるが、それでもまだ震災復興のめどが立ってない段階での消費税増税論は、国民感情を逆なでした。
これを期に、野田内閣の支持率は下がり始める。その後は大飯原発の再稼働 、李明博韓国大統領の竹島上陸 、尖閣諸島国有化宣言後の中国との緊張 などでどんどん支持率を下げ、11月半ばの段階でついに19%と20%を切った。
結局、野田は解散総選挙に打って出るタイミングすらつかめず、2012年12月、任期満了直前に解散総選挙となり、自民党に惨敗することになる。
なぜ民主党政権はうまくいかなかったのか?
あれだけ国民から期待された民主党政権が、最後はボロボロの延命内閣になってしまった理由は、いくつかある。まずは「政治主導」という言葉のとらえ違い、これが大きかった。政治主導とは決して官僚の“排除 ”ではなく、政治家のリーダーシップの下、官僚を“うまく使いこなす ”ことだ。
民主党は政権発足当初から「政治主導・脱官僚」を唱えていた。確かに官僚政治を悪とし、それを排除する方向性は、国民から支持されやすい。だがそれは、自分たちに確固たる政策立案能力と執行能力があってこそ実現するものだ。
ところが民主党は、官僚を完全に閉め出して政策決定を行うには、あまりにも若かった。政治家サイドから省庁に出向する大臣・副大臣・大臣政務官の中に、官僚以上の政策立案や予算編成をできる者はおらず、また官僚以上に根回しに長けた者はいなかった。
しかも、政治サイドで意思決定するとはいっても、党全体で討議にかけることはなく、ごくごく一部の人間だけで意思決定された。これはリーダーシップではなく、単に党として成熟していないだけだ。結局民主党は官僚を排除したことで、政治を拙く、無駄な予算のかかるものにしてしまった。
また、この誤った政治主導のせいもあって、選挙時の「政権公約」、いわゆるマニフェスト がほとんど守られなかったことも、民主党の人気を下げる結果となった。
確かに民主党がマニフェストに示した政策は、どれも素晴らしかった。高速道路の原則無料化、公立高校の実質無償化、中学卒業まで月2万6000円の「子ども手当」支給、国家公務員の天下りや“渡り”の斡旋を禁止、ガソリン税に上乗せされている「暫定税率」の廃止……これらが本当に実現されるのならば、これ以上素晴らしいことはない。
だがこのマニフェストの内容は、ほぼすべて実現できなかった。実現したものはといえば、公立高校の無償化ぐらいだ。
なぜそうなったか? 一つは政治主導の弊害のせい、そしてもう一つは、予算の見通しが甘かったためだ。
実は民主党は、これらマニフェストに書かれた政策執行の予算を「埋蔵金 」に求めたのだが、これがそもそも甘かった。埋蔵金とは、霞が関に眠っているとされる、特別会計の剰余金・積立金の俗称だ。
民主党の読みでは、これが8兆円ぐらいある上、現行予算からも20兆円ほどぜい肉は削れるはずだから、これらを使えば国債をほぼ発行しなくても、マニフェスト実行のための予算は組めるはず――民主党はそう考えた。
そして、その埋蔵金を探し、予算のムダを削るべく行われたのが「事業仕分け 」だ。
これは民主党政権下にあった「行政刷新会議 」が、国家予算の中でも不透明な部分の多い独立行政法人や特別会計予算の必要性を判定したイベントだが、当初はかなり注目された。
なぜなら予算編成のプロセスを、事業担当者を呼びつけて追い込む姿まで含めて「テレビ中継」したからだ。事業担当の役人たちが、蓮舫など民主党国会議員の鋭い追及にたじたじとなり、ペコペコする。その姿はかなり面白く、政権交代したと実感させる映像だった。
蓮舫 が次世代スーパーコンピューター開発費の予算を話し合っているときに飛び出したフレーズ「2位じゃダメなんですか? 」が飛び出したのも、この事業仕分けだ。
ただ残念ながら、その追及は不十分で、しかもその判定結果に拘束力はなかった。結局合計3回やった事業仕分けでは、埋蔵金は見つからず、予算のムダも削れず、仮に見つかっても「廃止の判定」や「返納を求める」ぐらいしかできなかった。
この結果に国民は「事業仕分けは単なる国民へのガス抜きか」と失望し、2回目以降急速に注目されなくなっていった。また、民主党は社会党・さきがけ・日本新党・新進党など多くの政党が集まって結成された政党だけに、党内に小グループが乱立し、意見を取りまとめることが難しかった。
この辺が自民党との大きな違いであり、党としての成熟度の差だ。自民党のすごいところは、ふだん仲が悪くていがみ合っている議員たちが、いざ議決の段階になると、とたんに一枚岩の結束を示す。この腰の強さがあるからこそ、仲の悪さも「活発な議論」に見え、国民から支持される。
対して民主党は、仲間のミスをフォローするどころか笑い、結束すべき局面で足を引っ張り合った。そういう部分を国民に見えるところでやったのでは、国民の支持を取りつけるのは難しい。