1. HOME
  2. ブログ
  3. ◯1959年(0歳〜)〜親の教育〜岡山理科大学
  4. 1977年6月、チャールズ・チャップリンが亡くなる前に自宅でお会いしました 

1977年6月、チャールズ・チャップリンが亡くなる前に自宅でお会いしました 

1977年4月、岡山理科大学の18歳の時に「防衛省の陸将補」を任命されて、「防衛省のコンピューターシステム」を全て自分一人で組み上げて報告書を書きました。

その内容を読んだ栗栖統合幕僚議長は、

「この内容は日本だけのものではなく、これから世界に必要なものだから「国際特許」にするべきなので一緒にイギリスに行って下さい。」

と言われて、防衛省の特別機でイギリスへ行きました。

 

<イギリスの特許事情>

イギリスの特許制度」は、「英国知的財産庁の特許部門」が管理していて、「海外からの特許」については他のヨーロッパ諸国同様に「パリ条約」「PCT」「EPC」の3通りが主流となっていました。これらのルートから外国でも効力が発揮できる「特許権の出願・登録」がされており、先願主義・審査主義・出願公開制度・サーチ請求及び審査請求制度・物質特許制度・クレーム多項制などといった特色がある特許制度となっています。

▶️詳しくはこちらをお読み下さい。

 

「イギリスの特許」を登録し終わった栗栖統合幕僚議長は、

「せっかく、イギリスまで来たのですから、誰か会いたい人はいますか?」

と聞かれたので、小学生の頃に家にテレビが来た時の体験談を教えました。

 

私は小学校に行かせてもらえなかったので、毎日、午前中は母と畑の手伝いをしてお昼ご飯を作り、午後は家の拭き掃除とお風呂を薪でたく準備をしてから、午後3時から5時半まで外国の映画が流れていたので世界の映画を「白黒テレビ」で見ていました。

その中で見たチャップリンの「ライムライト」や「独裁者」や「黄金狂時代」の社会風刺にすごく感動したので、もし、チャップリンに会えるなら会いたいです。

と言うと、とても困りながらもいろんな知人に連絡してくれました。

 

大東亜戦争が始まるまで「チャップリン」は、とても日本人が勤勉で働き者なので、自分の召使いを全て日本人にしたほど「日本びいきだった」ので、使用人をしていた「フランク・ヨネモリ」の家族を見つけてくれて、直接、チャップリンに電話してくれたおかげで「チャップリンの自宅」に行くことになりました。

  

 
フランク・ヨネモリ(Frank Yonemori)は、20世紀前半に映画界の巨匠チャールズ・チャップリンの「秘書兼使用人」を務めたハワイ出身の日系二世の男性です。 
 
 
当時、チャップリンは日本人に対して深い信頼を寄せており、一時期は邸宅の使用人全員を日本人で固めていたほどでした。フランク・ヨネモリもその一人としてチャップリンを身近で支えた重要な人物です。 
 
 
主な経歴とエピソード
  • 秘書への昇格: もともとはボーイなどの使用人としてチャップリンに仕えていましたが、1934年にそれまで長年チャップリンの筆頭秘書を務めていた高野虎市(たかの とらいち)が辞任したことをきっかけに、後任の秘書へと昇格しました。
  • チャップリンの来日同行: 1932年にチャップリンが5日間の予定で日本(神戸など)を訪れた際にも同行し、身の回りの世話や手配を行っていた記録が残されています。 
  • 太平洋戦争による別れ: 1941年12月に真珠湾攻撃が勃発し、アメリカと日本が第二次世界大戦に突入したことで、日系人であった彼はチャップリンのもとを離れざるを得なくなりました。

 

当時の私は18歳、チャップリンは88歳の高齢で、自宅のベットで寝ていたのに、「わざわざ日本から客人が来た」ということで、いつもの「チャプリンスタイル」のスーツを着て、帽子をかぶり、ちょび髭を付けて、ステッキを持って登場してくれました。

 

きちんと頭を下げてからチャップリンさんと握手しようとすると、腰からシマシマ模様のパジャマが出ていたので、「これも演出ですか?」と聞くと大笑いしてくれて、自分で紅茶を淹れてくれていろんな話をしてくれました。

 

チャップリン)私は映画を通して世の中の間違いを正したいと思ったが、いくら真面目な映画を作っても全く売れないので、発想を変えて「笑い」で人の心を変えることにしたんです。

あなたは、私の映画は見ましたか?

 

吉岡)はい、全て見させて頂きました。

 

チャップリン)どの映画の、どこが面白かったですか?

 

吉岡)一番印象に残ったのは、「モダンタイム」の歯車に挟まったシーンですが、あの映画は、イギリスの産業革命と労働者を「豚扱いしている風刺」なので、とても素晴らしい表現だと思い感動しました。

 

チャップリン)あとは?

 

吉岡)「ライムライト」ですかね。

心優しい男が惚れた女に対して「男の弱い部分」を上手に表現しているし、絶対にあれは「チャップリンさんの体験談」だと思い、男の優しさを理解できない冷たい女の言葉に涙が溢れました。

 

チャップリン)あとは?

 

吉岡)「独裁者」や「黄金狂時代」は、完全に「イギリス女王陛下をパッシングしている映画」ですが、よく捕まりませんでしたね?

私がイギリス女王陛下だったら、逮捕するか殺すと思いますが、よくご無事で済みましたね。

 

チャップリン)日本のこんな若い人に、「ここまで私が映画を通して伝えたいことをスバリ言った人はいない」ので、私のこの帽子とステッキを君に差し上げよう。

日本の「淀川長治君」にも映画の感想を聞いたのだが、彼は自分視点が強すぎて私が意図した「裏の思い」が伝わらなかったが、日本では売れている映画解説者らしいと思うなあ。

 

「チャップリンのことに関しては世界で一番詳しい」と自分で言っているようだが、私はそんな許可は出していないので、君が私の映画を評価してくれんかね?

今まで見た映画の感想や感じたことをを日本語で書いて送ってくれれば、こちらでまとめるので、どうだい?やってくれるかね?

 

吉岡)はい、喜んでやらせて頂きます。

私が中学二年生になった頃にやっと「テレビがカラー」になりましたが、絶対に白黒のほうが「チャプリンさんの思い」が伝わると思います。

素晴らしい映画を作って下さり、本当にありがとうございます。

 

チャップリン)もう君と私は他人ではないので、「さん」はいらないので「チャップリン」と呼び捨てで呼んでくれ!

私は自分が信頼した人間を世界で三人だけに「チャップリン」と呼ばせているが、日本からきた君の名前をもう一度、この紙に書いてくれんか?

ワシが死んだら、この紙を棺桶に入れてもらうので天国まで持って行くさ!(^^)

 

吉岡)さすが、チャップリン!最後の最後まで「演出」がすごいですね!!

 

チャップリン)いやあ、君の機転の速さには私も参ったので、ぜひ、新しいアイデアがあったらこの紙に書いて送っておくれ。私は疲れたので、このまま休ませてもらうが、いいかのう?

 

吉岡)もう、十分でございます。

私の気持ちは、もう「天国」に行ってしまっているので、チャップリンが死んだ時は上からお迎えに行かせてもらいます。

では、最後に温かい手の温もりだけ感じさせて下さい。

 

私がそう言うと、自分で両手を差し出して、両手を縄で巻きつけて、「このまま天国へ連れて行ってくれ!!」とチャップリンが涙を流して天を仰いだので、私も栗栖統合幕僚議長も涙が止まりませんでした。

 

チャップリンは天を仰いでしばらくすると、

「神様がもう少しだけ生きろ」と言ってるので、今日のところは死ねないみたいなので眠るとするわ。

ありがとうございます、吉岡学さん。

と両手で私の両手を包んで下さり、温かい波動が伝わってきたあと、最後にハグしてキスもしてくれました。

 

 

そして、誰にも言ってない「内緒の話」を耳元で聞いて驚きました。

 

チャップリン)イギリス女王陛下は「ダイアナ妃」が次の女王になるのをとても嫌がっているので、きっと「事故に見せかけて殺す」と思うよ。

エリザベスは、そういう恐ろしい女だから気をつけなさいね!

 

「プリンセス・ダイアナ」ことダイアナ・フランセス・スペンサーは、イングランドで子爵の三女として1961年7月1日に生まれて、1997年8月31日にパリで交通事故で死亡。 享年36歳。

 

 

 

最初は体調が悪いのでチャップリンの家族が「30分だけ」と言っていたのに、「自分のショート映画」をひとつづつ見せてくれながら、「どうやって作ったのかの裏話」を教えてくれましたので、帰る時には「3時間半くらい」私のために時間を作ってお話ししてくれた貴重な体験でした。

出された紅茶もブランデーのほうが多く入っていたので、

「これは紅茶ではなく、ブランデー紅茶ですね?」と聞くと、「これからはそう呼ぶことにしよう!」と言って下さり、いろんな話をしました。

 

あまりに繊細な感覚を持っている人なので、

「お酒と女性に逃げるしか自分の仕事を続けられなかった」

と悔やんでいたので、

「私も全く一緒ですし、10歳の頃に担任の女のみどり先生に童貞を奪われました」と教えると、

「そうか、それは私より早いのでセックスの先輩だな?」

と言われました。

 

「でも実は、私には子供がもう30人以上いますが、どの女性も自分で育ててくれているのでお金がかからず助かります。」と事実を伝えました。

 

「もう、君には勝てるものはないので、「私の映画の販売権」を全てあなたに差し上げたいがいかがかな?」

と言われてしまいました。

 

「ありがたいお申し出ですが、私は「日本の武士」を束ねている吉岡一門の最後の頭領なので、「吉岡一門資産」が莫大にあるのでお金はいりません。どうぞ、必要な人に差し上げて下さい。」と伝えました。

 

すると、チャップリンは、「秘蔵の一番大切にしている帽子」を持ってきて、

「これ以上、大事なものは残っていないので日本へ持っていって下さい。」

と言われて預かっていました。

 

でも、「南朝の今上徳人天皇と秋篠宮文仁」と東京の居酒屋で「3人で会う機会」を作った時に、「私の父親の吉岡忠のタネ」で生まれた二人に「帽子二つとステッキ」をプレゼントしました。

 

そんなことがあった「チャップリンとの出会い」が、1977年の12月25日にチャップリンが亡くなったと栗栖統合幕僚議長に電話で教えてもらいました。

イギリスには行けないので「弔電」だけ打ってもらい、「私が書いた新しい脚本のアイデア」は「淀川長治さん」に送り、「私の名前は出さないで下さい」と頼んだので、淀川長治さんの名前で、「私のチャップリン」という本を出して下さいました。

 

「表紙の絵」も、私が書いたものです。

「岡山理科大学の数学科」なので三角、四角、丸の図形を使っているのでわかると思います。「分度器と三角定規」で書いた絵です。

「私のチャップリン」の注文先

https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AE%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3-1977%E5%B9%B4-%E6%B7%80%E5%B7%9D-%E9%95%B7%E6%B2%BB/dp/B000J8VD1I

 

チャールズ・チャップリン

1889年4月16日 – 1977年12月25日(88歳没)

 

https://youtu.be/_ZiqfbasYZk?si=WTWE0UlWrCejFKOq

アーカイブ