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京都 雪村周継 龍虎図(りゅうこず)の教え

1971年1月10日に12歳で、「吉岡一門総本家の頭領」になった日に、「頭領」しか入ることが許されない「吉岡総本家の20畳の和室」の大きな床の間の中には、吉岡一門頭領の御先祖たちが身につけた鎧兜が3体祀られていて、引き出しの中には日本中の有名画家の巻物や絵画がたくさん収められていました。

この「頭領だけの和室」に入ることは私しか入ることができないくらい「強い歴代の頭領達の念」で守られているので、私の父の前頭領でも頭が痛くなり入れない大事な部屋でした。

「武具に宿った魂」が見える人にとってはたまらなく辛い部屋ですが、一般の人は死んだ人の顔が見えないので馬鹿にしますが、馬鹿にした人の家族が死んだり事故になる程「強い念」で守られているし、実際に武具を着ている人たちがこちらを睨んでいるので、「所作礼儀」をきちんとできない人は見ることさえ許されない特別な部屋なのです。

 

吉岡総本家の「分家の次男」に生まれた私は、「8歳から北朝のバカどもを斬り殺す役目」になったので、人を切って心が疲れると吉岡総本家まで歩いて行って「頭領の和室」で横になり、心が落ち着いてから巻物や絵画を1点床の間に飾り、「作者の意図」を汲み取る対話をして心を穏やかにしていました。

 

本当に心が苦しく迷った時は、天を仰ぎ、自分の苦しみを「天上界の竜」に問う意味の「雪村周継「呂洞賓図 重文 大和文華館蔵」を見て自分の心の思いと照らし合わせて考えました。

雪村(せっそん、明応元年(1492年)? – 天正17年(1589年)頃)は、室町時代後期・戦国時代の画僧で、水墨画を描いた。雪村周継とも称し、諱、別号として如圭、鶴船老人などがある。

 

吉岡総本家の家には、武家であり僧侶の雪村周継の絵や屏風が全て寄贈されてありましたが、私の叔父が「私の吉岡総本家の財産の家と田んぼと土地の権利書」を奪って売り払った時に、自分では入れない頭領部屋にあった雪村周継の全てのものを私の判断で東京の根津美術館 wikipedia」に寄付して保存してもらいました。

しかし、吉岡総本家に寄付されたあらゆる絵画や巻物には「作者の名が入れてないものが多い」ので、「解説書」だけつけて寄付したものなので「売ることができないようにした知恵」に感動しました。

 

「ものの価値も分からない人間」は偽物でも売る「商人達」ばかりなので呆れますが、私は子供の頃から本物を見て育っているので、「世界中の本物を見分ける眼力」はありますので、マーゴと一緒にフランスの「ルーヴル美術館」や、アメリカの「メトロポリタン美術館」や、ロシアの「エルミタージュ美術館」に行っても、すぐに「展示物が全て偽物」だとわかったのでマーゴは驚いていました。

セキュリティ上、「偽物を飾るのは仕方がない」とマーゴは言っていました。

アメリカ 「メトロポリタン美術館」

ロシアのエルミタージュ美術館

フランス ルーブル美術館

 

雪村周継は、伊藤若冲や曾我蕭白に代表される「奇想の画家」の元祖とも称される戦国時代末期の画僧で、大胆な構図と奇態な人物描写で知られている。比較的多くの作品が残っているが、その生涯を伝える資料は少なく、不明な点も多い。

生地は常陸国(現在の茨城県)が有力とされ、「佐竹家」に生まれ幼くして出家し、画業の道を歩きはじめたと思われる。

生涯京都には上らず、関東、南東北を活動の場とし、なかでも会津、三春には長く滞在している。

はじめて「雪村」が会津を訪れたのは50歳代半ば頃で、会津の城主・蘆名盛氏に画法を教えたとする資料が残っている。

盛氏は会津を拠点とした「戦国大名」で、すぐれた武将であるとともに、文学や絵画にも強い関心を持つ好奇心旺盛な人物だったという。

この時の「雪村」の会津滞在は長いものではなく、その後、小田原、鎌倉を訪れ、名僧や名画に接して画技を高め、独創的な表現を次第に確立していった。

 

二度目に会津を訪れたときには、雪村はすでに60歳代半ばになっていた。

この時も会津の蘆名氏、三春の田村氏が有力なパトロンとなり、80歳代で没するまで、会津と三春(現在の福島県田村郡三春町)を拠点に活動している。

 

この時期に描かれた中国の代表的な仙人である八仙の一人の「呂洞賓図(りょ どうひん図)」(掲載作品)は雪村の代表作で、雪村の「奇想」を決定的に印象付けた作品とされている。

「雲をよぶ龍」と「風を起こす虎」とを対峙(たいじ)させることは、風雲に遭(あ)う覇者(はしゃ)の姿として、室町時代中期以降、戦国武将や禅僧の間で好まれた。

 

本図の筆者・雪村周継(1504~89?)は常陸国(ヒタチノクニ・現在の茨城県)の禅僧で、80余年の生涯を東北、関東に遍歴した。名は、私淑した「雪舟」にちなむ。

 

本図では、暈(ぼか)しを多用した粗放な墨法がすさまじいばかりの表出力を生み、戦国地方画壇の風雲児と評される雪村の個性を遺憾なく発揮している。

落款形式から、会津蘆名氏のもとにあった永禄年間の後半から天正の初め、すなわち、雪村60歳代後半から70歳代前半の制作と推定される。

 

「吉岡総本家」には、他にも世界中からあらゆるものが寄贈されていたので、インド仏教のものからいろんなものがありましたが、「重要文化財」として根津美術館ホームページで公開されていますが、一般展示はされていません。

展示しない理由が、「学者が本物かどうかを見分けられないため」だと聞いて呆れました。

根津美術館ホームページ

「根津美術館」は、東武鉄道の社長などを務めた実業家・初代根津嘉一郎(1860~1940)が蒐集した日本・東洋の古美術品コレクションを保存し、展示するためにつくられた美術館です。

山梨県に生まれた初代嘉一郎は、若い頃から古美術品に関心を寄せていたようです。明治29年(1896)東京に本拠を移すと、実業家、政治家として腕を振るい、また教育界にもその活躍の場を広げるかたわら、茶の湯にいそしむようになると、美術品の蒐集にはさらに拍車がかかりました。その蒐集ぶりは豪快を極めたと語り草になっています。

そして、それらのコレクションを単に秘蔵するのではなく、「衆と共に楽しむ」ことが初代嘉一郎の願いでした。

その遺志を継いだ二代根津嘉一郎が、昭和15年(1940)に財団を創立、翌年根津美術館が開館しました。昭和20年、戦災で展示室や茶室などその大部分を焼失しましたが、昭和29年に美術館本館を再建、昭和39年には増築を行い、平成3年(1991)には創立50周年記念事業としてさらに増改築を行いました。

そして、現館長・根津公一のもと、平成18年より3年半をかけたこのたびの新創工事は、以前の新館を建物免震の収蔵庫に改築することからはじまり、3つの倉庫と旧本館を取り壊して、新たな展示館(本館)を建設するなど大規模なものとなりました。

昭和15年の財団設立当時、4,643点でスタートした当館の所蔵品の数は、2025年3月末の時点で、7,630件を数えるにいたっています。これらのうちには、国宝7件、重要文化財93件、重要美術品95件がふくまれています。

 

コレクションの大部分は、初代根津嘉一郎の旺盛な蒐集の成果です。蒐集の対象は、日本・東洋古美術の広いジャンルにわたり、当館コレクションの幅の広さにつながっています。また晩年、自ら青山と号して茶の湯をたのしむなかで集めた茶の道具の数々も、コレクションの重要な柱となっています。

初代嘉一郎没後に購入された作品、さらに、篤志家から寄贈された作品もあります。ことに作品寄贈の多さは日本の私立美術館としては珍しく、当館に対する信頼の高さを示しているといえます。購入品や寄贈品は、コレクションにさらなる魅力を加えています。

 

 

本日、こんな情報を公開した理由は、朝の夢に「龍虎図」が出てきて「東京のあるお寺」の人たちと会話した夢を見たからですが、いつも大事なことは夢で知らされるので読み解きが大変でしたが理解しました。

 

(夢のストーリー)

東京の大きなお寺に案内される。

男兄弟二人と家族に、家の中を全て案内してもらう。

そこには、狩野派の「動く虎の本物の絵」がある寺。

龍の絵の上にシルクを1枚かけておくと、虎が動き出すので、すごいと思いましたが、これも「吉岡総本家」にあったものなので、よくこの虎と対話をしていました。

「なんでも鑑定団」で見てもらうと「3億円の価値がある」といわれたと教えてくれました。

 

そのお寺の跡継ぎの長男は23歳、弟は20歳の学生です。

20歳の弟は「神学」に学び続けた結果、「プロテスタント」に興味を持ち、アメリカへ行ってもっと勉強したいと言うのでアドバイスしました。

 

もし、アメリカに行くなら期限を3年間とせよ。

「石の上にも3年」と言葉があるように、自分が決めたことなら3年間はしっかり学んでこい!

そうでなければ、大成はできないぞ。

 

お前の家は仏教の坊主なので金持ちだが、アメリカの宗教を学んでどうしたいんだ?

もし、100名の弟子を持ってもお前が大成することは絶対にできないぞ!

 

男はな、自分は一人で山を登り、自分一人で山を降りた経験がない人間は、必ず挫折するものだ。

何、迷ったら立ち止まって考えるだと?

 

兄23歳)俺も立ち止まって考えるのがいいと思いました。

 

「お前達二人とも、甘い!!!

人生の時計はな、何があっても止まらないものだぞ!

迷ったり、落ち込んだり、苦しんだりするのは当然だけど、それも一歩づつで良いから「心の歩み」は止めるな!!

 

足の歩みを止めて考えると、ドツボにハマって動けなくなるので、自分の予定を詰め込んで余計なことを考えられないくらい自分を忙しくしろ!!

 

立ち止まって考える奴は、絶対に、大成しないぞ!

 

山上りで立ち止まれば「楽」だが、立ち止まれば全てが止まり、心も止まるものさ。

 

「龍虎図」の本当の意味はな、兄弟仲良く、世に勝ち、世間の荒波を乗り越える「男兄弟の学びの図」なので、「天を仰ぐ竜」を見上げる虎の意味を自分たちに置き換えて考えてみろ!

 

「地を見下ろす龍」は、幸せだと思うか?

先に生まれた長男も、後で生まれた次男も、立場は違うが同じ学びの意味で同じ家に生まれているので、兄弟喧嘩はするなよ!

 

大人になれば、二人とも住む場所は違うが、「役目の違い」だけなので争うことはするなよという意味が「龍虎図」の意味だと俺も子供の頃に学んだぞ!

 

だってな、悩んでいる男の足元を見てみろよ!

空を飛んでる竜よりも大きい龍が男を支えているのに、気づかないのは男のほうなのさ。

 

俺も12歳で吉岡一門の頭領になった時はな、本家の家族全員と、自分の両親と兄貴を斬り殺しても良い立場にあったんだが、生まれた時から両親に毎日殺されそうになりながらも「吉岡一門の兄弟争いのカルマ」があったので我慢して両親も兄貴も切り殺さなかったのさ。

 

いつでも両親を斬り殺させる覚悟があるからこそ、殺すより、「生きる苦しみ」を経験させるほうが良いと思ったのさ。

 

自分のことしか考えない人間はな、最後の最後まで苦しむ経験をさせられるし、そう簡単には死なないので最後の最後に「一人ぼっちになる意味」を天は経験させて考えさせるものなのさ。

 

だから人を殺すよりも、「死ねないほうが苦しい」とわかったので、俺は何もしないと決めたんだ。

 

それが本当に「相手を思う思いやり」だと、学びなさい。

 

まともな人間ならいつも誰かに支えられるものだが、自分勝手な人間はいくらお金があっても「最後は一人ぼっち」になると決まっているのさ。

そうならないために「龍虎図」を見て、よく学びなさい。

 

「雪村周継の作品」は全てが吉岡総本家にありましたが、全て寄付したので今はもうありません。

雪村周継が吉岡総本家に全て寄付した理由は、唯一、書いた絵の意味がわかる人間が「吉岡一門頭領」だと悟ったからだと父に聞きました。

 

「京都の重要文化財  龍虎図屛風 狩野山楽筆 安土桃山〜江戸時代・17世紀 京都・妙心寺蔵」の屏風も、「吉岡総本家」の統領が認めた画家なので、全て吉岡総本家にたくさんありましたので、「京都の妙心寺」に私が寄付したので展示している時に観に行きなさい。

この「屏風の絵の意味」を感じ取れたら今より賢く生きるコツがわかると言うものさ。

狩野山楽筆 重要文化財《龍虎図屏風》

俵屋宗達筆の国宝《風神雷神図屏風》

 

 

今日のブログで伝えたかったことは3つありますが、この意味を汲み取れる読者がどれだけいるかは分かりません。

「神の教え」というものは、このように説明をせず、夢の中で意識体験だけさせて「自分の心の位置」を変える教えを下さるので、その人の心のレベルによって理解が違うものなのです。

 

「呂洞賓」は中国の「八仙人の一人」なのに、仙人でも悩んで天を仰ぐ意味から自分の足りなさを気づく絵が「龍虎図」ですが、この教えを夢で見せた意味まで気づけた人は、これから日本で起きることの準備と覚悟ができるはずです。

 

 

日本はまもなく戦争に巻き込まれるか、「東南海トラフ大地震」で日本の人口の1/3以上が亡くなりますので、私はそのあとの対策はしてありますが、誰が生き残るのかは分かりません。

2025年に「東南海トラフ大地震」が起きる確率は86%です。

2025年に起きない場合は、2026年に96%の確率で起きると、世界最高のスパコン富嶽で予想されています。

 

もし、「東南海トラフ大地震」が起きて、さらに、中国が日本を攻めた場合、日本はどう対応するのでしょうか?

防衛省にも日本政府にも伝えましたが何もしない奴らなので、私の独断で対応策はしたので、生き残った人たちだけで「新しい日本」と「新しい世界」を作る予定です。

天無神人

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