1. HOME
  2. ブログ
  3. ◯1982年(23歳〜)ダイエー・中内功・松下幸之助・ロジワン・ダイエー労働組合中央執行委員・UAゼンセン・連合・民社党・自民党
  4. 松下幸之助さんとの思い出

松下幸之助さんとの思い出

私が初めて松下幸之助さんにお会いしたのは1982年で、「私が23歳」「松下幸之助さん86歳」の時で、私はスーパーのダイエーに入社した「ダイエー入社式」のあとにお会いしました。

「63歳差の先輩」ですが、飲み屋の女性に聞かれた時は、「少し歳が離れた友達だ」と幸之助さんが言ってくれるほどの信頼関係でした。

 

「テレビで見た松下幸之助さんが今、ここにいる」・・・事前に著書を読んでいたので会社の話はできましたが、「経営の神様」と呼ばれた人なのでとても気を使いました。

でも、ダイエーの中内功社長が札幌へ来る時は、必ず幸之助さんも一緒に札幌へ来るようになり、いつも私に電話をくれるのは幸之助さんでした。

ススキノの高級スナックか料亭で会うことが多くなりましたが、支払いはいつも幸之助さんで、自分の上司の中内功はケチで呆れました。

 

3人とも飲んでも仕事の話はしませんが、自分の上司の中内功は「売上を上げる」のは得意ですが、入社した1982年から「ダイエーの利益を確保するのは私の仕事」になり、いつも取締役から電話が来るので、「新しい利益対策」をタダで教えてやったのに給料以外のお金は一円もくれないケチ男で呆れました。

 

「いつも幸之助と話す時間が長い!」と文句を言う中内功は拗ねている子供なので、「心の成長が伴っていない幼い人間だ」と諦めて付き合いました。

 

最初の頃は2ヶ月か、3ヶ月に一度のペースで3人で会いましたが、中内功がいると大事なことを幸之助さんと二人でゆっくり話せないので、自然に「幸之助さんと二人だけで会う時間」が多くなりました。

 

私は幸之助さんに質問したいことが山ほどあるので、紙にメモを書いて順番に質問しようとすると、私が書いたメモも取り上げて「あとで手紙で返答するから、今日はゆっくり飲みましょう」と言う気遣いのある人でした。

 

「自分のことは「幸ちゃん」と呼んでくれ!」と言う人だったので、「それはできないので、幸之助さんと呼ばせてもらいますと言いましたが、二人だけの時は幸ちゃん、学さん」と呼び合う信頼関係でした。

 

幸之助さんが私に質問することは、「私という人間」がどういう経験をしてこうなったのかを細かく聞くので、素直に答えました。

 

「赤ちゃんの頃にから両親が本気で殺そうとする体験」や「自分でハイハイして山のクマのお母さんに育てられた体験」や「吉岡一門頭領として北朝のバカどもを100人以上斬りまくった話」や、「18歳で高校を卒業し、岡山理科大学へ入ると18歳で防衛省の陸将補」になってしまい、「防衛上の全てのプログラムを一人で組んだこと」と、「タダで国の仕事」をたくさんしたことをお話しすると、幸之助さんは腰を抜かして驚いていました。

 

「首相専用裏番頭」として国に関わる重要な仕事もたくさんしたので「名前は絶対に出ない」ようにしたし、「給料はいづれもらいます」と栗栖統合幕僚議長に伝えたので、いずれまとめて国に請求します。

 

「ダイエーの仕事」をしながら「防衛省の仕事」をして、さらに「裏家業の問題解決」の電話も来るので大変なんですよ、でも全部タダの仕事ですけどね、

と伝えると「開いた口が塞がらんわ」と笑ってくれた幸之助さんでした。

 

幸之助さんは、「まなぶさん」と私を呼ぶので親しい友人のようですが、まなぶさんの体験は誰にも言えませんが、ヤクザよりも怖い人間だ」と中内が言っていた意味がやっとわかりましたと言われたので、「経営の神様にはかないませんよ」とお返ししておきました。

 

幸之助さんは、「東海道新幹線の駅ごとに女がいる」と中内功に聞きましたが、本当ですか?

 

あー、いるよ!!

そうだ、もう俺は歳だから行けないので、学さんに一人につき100万円づつ持って行ってくれるか?

 

そう言われて住所と電話番号のメモをもらい、500万円を預かり、一人づつ自宅までお金を渡したに行ったこともありますが、「あんなお婆さんのどこがいいんですか?」と聞くと、「飯がうまいのよ。それと膝枕が暖かくてゆっくり寝られるのさ。」と教えてくれました。

 

さすが、「仕事ができる男は女にモテる」というのは本当でした。

 

1989年4月27日に幸之助さん亡くなるまで7年間のお付き合いでしたが、毎月1回から「毎週電話」が来るようになったし、ある時、東京に呼び出されて指定されたホテルに行くと、パナソニックホールディングスのすべての取締役が全員が集まった会議の場でした。

すると、幸之助さんは、「吉岡さん、今、全員一致で君がパナソニックグループの全ての社長になったぞ!」と言うので、こう言いました。

 

「あのう、私の許可なくパナソニックグループの社長にするのは勝手ですが、もし私が社長になったら今ここにいる給料が高い取締役を全員クビにして、若い優秀な奴らで会社を運営しますが、それでもいいんですか?」

と伝えると、全員絶句して返事がなかったし、「日銀の三重野康総裁」もいたのに全員、言葉が出ないのでそのままスタスタ一人で部屋を出て帰りました。

 

それでも仲良しの幸之助さんの気持ちもわかるので、パナソニックグループの取締役たちから時々電話がきて「困ったので相談に乗って下さい」とくるので、「自分が社長なら多分こうします」と返事を即答するようになりました。

いつもどの取締役からも社長をお願いされるので、「今度、社長になって下さいと言葉にしたらあなたの携帯番号は着信拒否にします」と伝えてから、「パナソニックグループ全体の短期中期長期計画書」を作ってFAXしてやりました。

 

「バブル崩壊の兆し」がでた時期に、東京の銀座の高級クラブに幸之助さんに呼び出されて、秘書の男性に「パナソニックグループの経営統合」と「リストラ計画」と「特許の売買」をお願いされたのでやりましたが、「優秀な技術者と特許」は他の日本企業に値踏みして私が売ったので何とか最低の計上利益は確保できたし、多額のお金を吉岡一門資産から融資して「大規模な組織改革」を行いました。

 

注)1980年代のパナソニック(当時の松下電器グループの組織改革は、海外事業の拡大と多角化への対応が中心で、組織再編により海外子会社を統合したり、事業部制を強化したりする動きが見られました. 特に、「海外事業の強化」と「グループ各社の事業連携の促進」がこの時代の主要な改革テーマであり、後のグローバル展開の基礎を築きました.

 
 
主な改革の背景と内容
 
  • 海外事業の拡大とグローバル化への対応:
    1980年代に入り、松下電器は海外市場での競争激化と事業拡大に積極的に取り組みました。これに伴い、海外に分散していた関連会社の統合や、海外での事業運営を効率化するための組織再編が進められました.

     
  • 事業部制の強化と多角化への適応:
    松下電器は家電だけでなく、半導体、住宅、自動車部品など、事業領域を多角化させていました。この多角的な事業を効率的に運営するために、それぞれの事業分野に責任を持つ「事業部の権限」を強化し、より専門的な経営を可能にするための改革を行いました.

     
  • グループ全体の連携強化:
    各事業部や海外子会社が独立して活動するのではなく、グループ全体として一貫した戦略のもとで連携し、「シナジー」を生み出すことが目指されました。このための組織構造の見直しや、「情報共有システムの構築」なども進められました.

     
具体的な動きの例
  • 海外子会社再編:
    規模の小さい海外子会社を統合したり、統括する地域会社を設けたりするなど、海外事業の管理体制を強化しました.

     
  • 事業部機能の拡充:
    各事業部に研究開発、製造、販売、マーケティングといった機能を集約し、より迅速な意思決定と市場変化への対応を目指しました。

     
これらの組織改革は、1980年代における松下電器のグローバル企業としての成長と、多様な事業領域への展開を支える重要な基盤となりました。

 
 

 

こういう付き合いなので、本社の社長室にも行ったし、「兵庫県西宮市」にある幸之助さんの自宅で家族全員を紹介してもらい、「奥様の手料理」も食べさせてもらったし、酒を飲みまくって朝に起きると、もう全員が仕事で誰も家にいなかったので、さすが働き者の一族だと思いました。

 

幸之助さんはお礼で、有馬温泉で一緒に「女体盛り」も楽しみましたが、会うといつも「俺の会社を経営してくれ!頼む!」と言われるし、最後は亡くなる病院の部屋から私の携帯に電話がきて、「松下グループの全財産をやるので社長をやってくれー!!最後のお願いだ!」と頼まれましたが、丁寧にお断りしました。

 

私にとっては思い出が多い大事な人でしたが、中内功社長から「幸之助が死んだぞ」とダイエーの売り場に電話が来た時に、

「私の首に弘道会の司忍から懸賞金がかかっているので葬儀に行きたいけど行けません。

行けばたくさんの人に迷惑がかかるので代わりに葬儀に行って香典を出しておいて下さい。

幸之助さんの葬儀に行けなくてとても悔しい思いでいっぱいです・・・。」

と理由を説明して中内功に私の名前で香典を出してもらいました。

 

人生とは面白いもので、自分が意図しなくても自然な流れで、「松下政経塾」を昭和56年(1981年)に幸之助さん本人から任された上甲晃さんに「ラジハピ」のご縁で会うことになり、講演会のサポートも無料で手伝いました。

 

講演会の最後に、「幸之助さんが神戸山口組のヤクザだったことはご存知ですか?」と上甲晃さんに聞くと、「そんな話は全く知りませんでした」と疑いの目で見られましたので、詳細を詳しくお話しして納得してくれました。

 

仕事上では、ダイエーとパナソニックは販売価格で揉めて「納品停止」にしていたのに、「パナソニック商品」を裏から回して納品させたのは上甲晃さんだったと教えてくれました。

でも、ダイエーの売り場で最もパナソニックの電化製品を売ったのは私だったんですよ。

オーディオも電化製品も大好きだったので売りまくりましたが、日用品の売り場責任者なのにとよく嫌味を言われました。

子供の頃から武士の吉岡総本家には昔から「パナソニック製品」しかなかったで、最後は全部私がもらうはずだったのに、金に汚いバカ叔父に売られてしまったので勿体無いことをしました。」と教えたので二人で大笑いしました。

 

幸之助さんに質問されて、何度も「経営アドバイス」をしたこともありますが、頭がいい人なので「自分の言葉に置き換えて」従業員や皆さんに伝えてくれたことが、「私の魂の伝承」なのでさすが有名人、「言葉巧みに人を誘導するプロの経営者」だと思いました。

 

「幸之助さんの教えは私の教え」でもあるので、どうぞ、「人生の悩みと経営学は同じ」なので、自分のこだわりの考え方を変えてもう一度チャレンジして自分が選んだ会社を大きくして下さい。

 

今、パナソニックグループが存在しているのは「私のおかげ」ですが、一円もお礼のお金はもらってないし、そんなお金はもらうつもりもありません。

最後の目標は、「日本のパナソニック」ではなく、「世界一のパナソニック」と呼ばれるように経営陣は頑張って下さい

と代表取締役に対してお手紙を書き、大胆な「事業戦略」を添えて送ってあげましたが、電話番号は変えたので誰も私に電話はできないようにしておきました。

 

「世界のパナソニック」になった時には「相談役」くらいにはなってもいいかと思っていますが、それ以外の「国の仕事」がとても忙しくなると思うので、どうなることやら・・・。

https://youtube.com/shorts/bAljGFQxQLU?si=BFiVLISxFgGdwpl-

カテゴリー
アーカイブ