「ボランティア」とは何なんでしょうか?

 昔々のサラリーマン時代に、私は、自分の仕事と生活のことで頭がいっぱいの日々を送っていました。そのときに、市民ボランティアをしている人たちのことを、「ものずきな人」 くらいに思っていました。
でも、そういいながらも、会社の中の情報で、養護施設の定期慰問や、重度障害者施設への関わりには、積極的に参加していました。

その理由は、自分が、普通に暮らせていることのありがたさを、何かの形でお返しすることができないかと、いつも探していたからです。
この想いは、ありがたいことに、母親の教育のおかげなのですが、その母の心の根本にあるものは、母の父親が、戦争で左足を失った障害者だったことで、子供の頃かからいじめられてきた深い悲しみが、私の生き方にとても大きく影響しています。

話を戻しますが、最近の日本では、「ボランティア」という言葉は定着してきていますが、根本的に、その言葉が無かった日本にとっては、「ボランティア」という言葉のイメージが、アメリカと日本人では、違うと感じています。

まず、なぜ日本に、ボランティアという言葉が、無かったのか?
それは簡単なことですが、昔の日本には、みんながお互いに助け合う相互自助、相互幇助の精神が普通にあったので、、誰かが特別に、大声をあげて叫ばなくてもよかったからです。
では逆に、なぜ今、ボランティア活動がこれだけ、日本に広がっているのか?
答えは、それを必要とするくらいに、大切なことを忘れかけている人たちが、多い時代になったからです。

クリスチャンの信仰が多いアメリカ人にとって、収入の1割を世の中に奉仕・還元することは、「美徳」という意識で定着していますし、それをチャリティーという宣伝行為や売名行為にしていることさえも、社会全体としては、とてもいい経済効果となって、全体では社会の循環の一部になっています。

私は最近、そのアメリカ人気質と日本人気質の違いとは何かと考えたことがありました。今のところの結論では、「現実重視の考え方」だと想っています。それは、自分のしたことを何かに置き換えて要求したり、天秤に載せるようなバランス感覚を持っていることが、アメリカ人気質かなと感じています。

反対に、日本人には本来、自分の「徳」をあげたいという精神がどこかにありますので、自分のした「よい行い」を、何かに置き換えようとは、思っていない部分があります。「不言実行」もその表れですが、20 世紀の最後の頃には、「有限実行」のほうがよいという教育さえありました。
もうひとつの理由には、今の日本の若い世代の人たちが、良く口にする言葉に、「自分のしたことをして何が悪いの?」」という価値観と、アメリカ的な感覚がとてもよく似ているからです。

この今の日本の文化社会は、戦争に負けた当時の日本に対して、アメリカが戦略的に日本を動かそうと「GHQ理論」に基づいて作られてきたものでして、現代の価値観は、実は裏側で、それが大きな原因となって今の社会が形作られています。
もう一方の見方では、私のところに来られる多くの方たちの共通テーマも、年代を問わず、「自分のしたいことが見つからない」なのです。

もっとはっきり言えば、「自分にあった職業が、何かわからない」とか、「まだ、そういう職業に、出会っていない」と言って、フリーターという名前の職業?や、定職に一回も付いたことがないことを正当化しながら、実は、親や社会に「依存する人間たち」を、たくさん作り出してしまっている現状さえ、社会が認めて許してしまっているように感じています。

若い方でも逆に、田舎のおばあちゃんや、周りの大人の人たちとたくさん関わって生きてきた人は、相手の気持ちを天秤にかけるような感覚が、あまりありません。
自分より相手を大切に思い、感謝する「美徳の精神」が、根付いているからです。私も少しだけ、ボランティアをさせてもらっていますが、自分が大切にしているのは、そのボランティアの自分個人の目的です。

ふつう、人や世の中に良いことをすれば、それはいいことなんだから、その分、自分のしたいことをしても、当然という考え方もあるかもしれませんが、実は、ボランティアという行為は、お金が関わらない分、誰の、何の為なのかが、とても、難しいところがあります。

以前、私自身がFMラジオのパーソナリティイーを1年半ほどしていたときに、全ての準備から進行まで、ボランティアで行っていたことに、とても考えさせられた経験があります。
お金という対価を求めないと、自分がやったことの結果は、相手からの喜びの言葉でしかありません。でも、ラジオで突然、私が話し始めても、何の反応も返って来ない時期が、長くあったからそう感じたのです。

自分がしたくてしたのに、その喜びさえも実感できなかったとしたら、それは、続ける理由が難しくなってきます。そのときに、何のために自分は参加したのだろうと自問自答してみると、自分なりの答えが、ふと出てきました。
「ボランティでするということは、全てが、自分のためなのだ」と、いうことです。
あー、そうか、自分の勉強でもあり、自分の経験でもあり、自分の為の出会いの場でもあり、全てが、自分の学びのために、与えていただいた神様のチャンスなんだと気づいたのです。

だとしたら、自分の喜びをもっと大きくするには、どうすればいいのだろう?と考えたときに、自分以外の人が、ボランティアに参加してくれて、喜んでくれている顔を見れることだと思ったのです。
だから、自分が楽しむことは、最後の最後にして、参加されている全ての人が、どうすれば気持ちよく参加して帰っていただけるか、また、次に参加したいと思えるために、自分が配れるだけの気を使おうと心がけて参加しています。

現代社会は、「お金」という経済社会で成り立っていますので、自分だけが「無料ボランティア」だと思っていても、絶対に、誰かが、どこかのお金を使っているおかげで、ひとつのことがなりたつようになっています。
言い換えると、ボランティアでしていることを、もし、お金のやり取りをする仕事にしたとしたら、もっと多くの責任と、お金を支払う相手から、いろんなことを要求されるのは当然のことなのです。
そして、その支払うお金に対して、本当に満足させることができる人たちのことを、私は、「プロ」と呼んでいます。

「人生は一度きりだから、自分だけ、好きなことしても本当にいいでしょう?」と、もし、考えている人がいたとしたら、その人に、私は一言だけ、いっておきます。
「あなたの好きなことができるのは、だれかが、どこかで、自分の好きなことを我慢して、支えてくれているからなんですよ。」
だから、まだそのことに気を配れない自分がいたとしたら、自分の目の前にいる人に、感謝し続けるしかないと、私は思っているんです。

「人の出会い」も実は、全て、神様が決めています。
でも、その出会うことの意味を本当に理解できないと、これからあなたが出会う人は、あなたに大切なことを気づかすために、嫌な経験をわざとするような出会いにもなることでしょう。

人間は、喜ぶために生まれてきました。だからこそ、たくさんの苦しいことを、早く乗り越えられるようになりなさい。そして、たくさんの出来事、人に、感謝できる人になりなさいと、あなたに経験させてくれているんです。

全ての人が、「生き方のプロ」になることを目指していけば、誰も人を傷つけるようなことはしなくなるでしょうし、社会はすべて、みんなが喜ぶ方向へと進むことでしょう。
「ボランティア」、まだこの経験がないあなたは、ぜひ、この扉を開いてみてください。きっと、目に見えない大切なことを、気づけるチャンスになるはずですから・・・。

どの世界にも、「プロ」と「アマチュア」は、います。プロは、相手を喜ばすことにかけて、いつも真剣に、心がけています。そして、自分の喜びは、あくまで、最後の最後に残った収入でしか、評価されないという、厳しい現実がそこにあるからです。

人を雇っている方なら、なおさらです。雇っている人たちの給料も、稼いで当然と、従業員にも想われているからです。でも、アマチュアの人は、最初から、失敗を許されることと考えています。
確かに、人間が行うことに、「本当の意味の完全」はありませんが、最初から、甘えた考えだったり、人を利用することに、心が痛まない人たちは、アマチュア以下と言えるかもしれません。
だからそういう本当に人に喜ばれる人になるために、ボランティアで、自分の勉強をさせていただいていると、私も思っているのです。

昔は、そういう世界のことを、「でっちぼうこう」と制度で行っていましたし、「無料奉仕」という言葉もありました。
でもそこに、自分のしていることを正当化する気持ちが少しでもあると、結果から大きなことを学ぶことは、できないと思います。うまくいってあたりまえ、うまくいかなければ、全てが自分の責任と、一人で想って取り組むくらいで、ステキな体験をさせていただいているのです。

「ただほど、高いものはない」
この言葉の意味を本当に深く理解したのも、このボランティアの関わりに参加してから気づいたことでした。

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