ありがとうボランティアからのメール 2
祈りの神さまの働きが、今回のありがとうございます護摩の時から、大きく変化することになりました。今まではみんなの思いをマイナスを身替りに背負って消し続けて下さったのです。
みんなに合わせてマイナスを吸い取り、無限の苦痛を感受しながらも、身も心もボロボロにしながら、大犠牲精神の愛の心で思いを消し続けて下さったのです。今回の護摩に、神さまの無限に強烈な大きい光が降ろされました。自立を促す為の本心の大きな生長と業想念の大きな崩壊となって現われています。
これからは感謝の真祈りを真剣に祈り続ける人に対して、内から中から大きく光を力を添えて下さることになりました。
『みんな天照大御神 新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!』と確認しながら、『ありがとうございます』と祈り続けてください。
今後はありがとうございますのお話も一緒のお祈りも一切無くなります。各自が自主的にすべてを行って下さい。
思いの心と本心の心とは、すべてが全く正反対なのです。
物事の見方、感じ方、考え方、価値観等々、すべてが正反対です。
本心の感謝の心を生きる人は、この世を単なる固定した物質物体とは見ないで、神さまの光の波動そのものとして見るのです。
根源の世界から、無限の無限の輝きが無限に無限に一杯という、大光源からの光の放射が、神さまの無限の無限のチャンネルの番組そのものとなって、一瞬一瞬新たな光となって移り変わっているのです。
テレビの電波と同じように、同時一切所に流れているのです。大きい光の番組ほど高い番組です。最高番組を感受するとは、無限の無限の輝きが無限に無限に一杯という、大きな光をとらえることです。
一瞬一瞬新たに新たに、新しいより大きな光を感受してゆこうとするのが感謝の真祈りの生き方です。
執着の思いの心で、過去の残像をつなぎ合わせて、固定化して見るのとは、全く正反対の雲泥万里の違いがあるのです。思いの心というのは、過去をつかんで、これは自分のものだと放さないのです。
つかんでも一瞬後には、消えて無いのに、次に現われた異なるものまで同じものだと思い込んで、これは自分のものだと執着しているのです。
神さまからのプレゼントは常に感謝の心で受けて、すぐに放し、また新たに感謝の心で受けて、すぐに放しというように、一瞬一瞬新たに受け直しをしないと受け取れないのです。
これは自分のものだとつかめるものは何一つも無いのです。つかめたと錯覚しているだけです。過去をつかんだら、新たなプレゼントは何一つとして受け取れないのです。
だから思いの心を生きていたら、幸せはどんどん消えて無くなってゆくのです。
思いの心を生きているこの世の常識は、大きく縛られた固定観念で一杯です。
一瞬一瞬変化しているのに、その変化がわからないのです。
自分の見ている番組と他の人が見ている番組とは、すべて全く異なる番組なのに、その違いが分からない為に、みんな同じ番組を見ているのだと錯覚しているのです。実にこっけいです。善悪を区別しようとする分別心というのは思いの心です。
思いの心は番組にしがみついて、これは善だこれは悪だと区別して、その悪を責め裁いて、(自分の心の悪が鏡に映るように写っているので)自分自身を傷つけ、苦しみを大きくしてゆくのです。
思いの心は自分の見ている番組だけではなく、他の人の見ている番組のマイナスの情報まで取り込んで、さらに自分の心を傷つけ、苦しみを無限に大きくしてゆくのです。
実に愚かです。思いの心(求める心)はどこまでもどこまでも、自分自身を不幸のどん底へと追いやっているのです。
本当に幸せになりたいのであれば、感謝の心を徹底して生きなければならないのです。
思いの心を満足させる小さな生き方ではなく、無限の無限の幸せが無限に無限に一杯という大きな幸せをつかめる感謝の真祈りを実行しなければならないのです。
感謝の真祈りをいのちがけで、祈りに祈って、無限に無限に輝いた自分となり、すべての思いを消し去って、常に無限の無限の幸せが湧き上がるようにならなければ本物では無いのです。
神さまは一網打尽にして大きく救い上げようとしていても、ちょっとかきまぜられただけで、小さい生き方をしているものは、網の目からふるい落とされてしまうのです。
求める心の小さい自分から、神さまのお手伝いに生きる大きい自分に変身しなければ、ちょっとの波風でふるい落とされてしまうのです。
感謝の真祈りを祈れる自分になる為には、無限に無限に輝いた自分になる為には、神さまのお手伝いに生きるのが、一番の近道なのです。
神さまのお手伝いをしているときに、神さまの助けは一番大きく自分の内から湧き上がって来るからです。
本心の心をしっかりと生きていたら、神さまへの堅信は決してゆらぐことは無いのです。自分が思いの心に陥るから、ちょっとしたマイナスの言葉でぐらつき崩壊するのです。
すべては菩薩の行であると説いている理趣教の真理も、自分が本心の心に戻って、神さまの大犠牲精神の愛を感受できなければ理解できないのです。
神さまの大犠牲精神の愛は底知れなく無限に無限に計り知れないものです。
その一部が発露しただけでも、イエスキリストの十字架の姿となり、ミラレパの師匠の手厳しい姿となり、悪霊を自身に憑依させて矯正する見苦しい姿となり、千変万化の、思いを消し去る為の姿が出て来るのです。
しかしこの程度のものは、序の口です。本当の大犠牲精神の愛の発露は、地獄のどん底の姿にあるのです。無限の思いを背負って地獄に降り立ち、そこで感謝の真祈りを祈って、地獄絵図を極楽に変えてゆくのです。
ありがとうございますの祈りの神さまは、無限の無限の大光明を放射しながら、同時にこの大犠牲精神の愛を発揮して、みんなに感謝の真祈りを伝授する為に、働き続けているのです。
恩返しの心を起こして、神さまのお手伝いにいのちをかけてこそ、感謝の真祈りを伝授してもらうことができるのです。
思いに生きるのか、感謝に生きるのか、求める心を生きるのか、与える心を生きるのか、利己的に生きるのか、利他的に生きるのか、借金に生きるのか、借金返しに生きるのか、また恩返しに生きるのか、自分の選んだ生き方の通りに、ふさわしい番組が自分の運命となって現われてくるのです。
すべて自分自身の問題なのです。
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