神様に向き合う心と人に向き合う心の違い
寝ている時に、メッセージやビジョンを頂く人たちが増えていますが、その意味がわからず、神社や聖地を訪れたり、セラピストやヒーラーを通して意味を知ろうとするのは、よくわかります。
そういうことを書いている本もたくさん出ていますので、とても興味を惹かれることでしょう。
現実が辛かったり苦しい人たちは、特に、答えを探して右往左往しているようですね。
そういう人たちにとって宗教の教えが救いになることもあるでしょうし、誰かの優しい言葉で気付く場合もあることでしょう。
でも、そんな自分が何を求めているかご存知でしょうか?
現実の安心感、現実の満足感、現実の豊かさ、そして、心の平安です。
そのための大切な学びの視点を忘れてはいませんか?
私たちは現実に生きているのですからお金を稼ぎ、食料を調達し、誰かと寄り添い、支えあわなければ生きてはいけない動物です。
現実のバランスをよりよくする為には「心の成長」が必要なのは当然ですが、自分が天や神様に向き合う心と、人に向き合う心の違いを良く観察して下さい。
神様に向き合う時は、純粋で素直な気持ちで向き合うのに、誰かに向き合う時に、そうできないのはなぜなのでしょう?
許せない事がある人は本当に、その人が悪いのですか?
本当に、自分は正しいのですか?
あなたは、神ですか?
神様が、どんな気持ちでいるかをご存知ですか?
ご先祖様たちが、どんな気持ちでいるかをご存知ですか?
ご先祖様たちは、肉体を離れてから大切な事を思い出しています。
人間だった時に忘れていた、大切なこと。
それは、「お互いの足りない部分を許しあうために生まれてきた」という点です。
ご先祖たちは、その愚かさに気付いたからこそ、あなたをじっと見守っているのです。
誰かが最初に言葉にした「神様」という言葉の意味は、間違いを犯さない、完全な存在としてイメージしている様ですが、本当はそうではありません。
神様について改めて説明しますが、神様には3つの種類があります。
・「人格神」・・・ご先祖を含む、人間を祀った神様
・「自然神」・・・人間以外の全ての生類、生命体、自然
・「宇宙神」・・・地球以外の星や生命体、意識体
世界に現れた救世主イエス・キリストも、御釈迦さんも、それ以外のすばらしい人たちも、みな私たちと同じ人間です。
だからこそ、人間である限り、完全な人などいないのです。
完全な魂が、この世の中に生まれることはありません。
不完全だからこそ、互いの許しを行うために肉体という時間が与えられたのです。
生きている間は全て学びですから、これでよし!もありません。
大切なことは許すこと、感情があふれて誰かを傷つけた自分さえ、許すことです。
言っておきますが、イエス・キリストと昔、話をしましたが、
「私は聖書に書かれているようなことは言っていない」
と言っていました。
誰かと向き合った時に話した言葉だけを文字にすると、その時の大切なエッセンスは抜け落ちてしまい、言葉だけが先行して意味が変わって伝わっている事をとても嘆いていました。
さらに、彼の人間性を隠して完全性の部分だけで作りあげたのが旧約聖書や新約聖書ですから、それを読んだ人間が間違いを犯すのは当然です。
「自己犠牲」の学びが、もっとも大きな罪を産み出しているからです。
イエス・キリストが一番、苦しいと言っていたのは内部の争いもそうですし、宗派を超えた争いを今もし続けていることです。
このことは、御釈迦さんも同じ意見でした。
「おれはさー、ただ疲れて横になっただけなのに、その時が最後の悟りを悟ったとか言われて、今の涅槃像で祀られているけど、本当はそんなにたいしたことじゃないんだよねー。
俺が気付いたのは、形じゃないってことさー。
ちゃんと正座して、瞑想して神仏に向き合って祈っても、横に寝転んでいても、心が素直に御仏に向けられれば、大切なことは気付くということをわかったのさ。
あの時は、菩提樹に寄りかかって話をしていたけど、とても疲れていたんだよねー。」
これが、人格神の本音です。
世界のどの宗教の神様も、「人格神」はみんな同じです。
だから、間違えないで下さいね。
あなたが神に向き合う時の真摯な心で、周りの人に向き合えば、きっと、問題も解決するということがすぐにわかるはずです。
このことが今、とても大切な学びだと大神様が教えてくれていますのでお伝えしています。
私も毎日、感謝とお詫びの連続なんですよ(^^)
大切なことに気付いて素直になれたら、できることから一歩づつ進んでいきましょう。
あなたを見守ってくれいてる人たちのためにもね・・・・。