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【滋賀県】 三上山(近江富士)の女神たち

11月4日、「愛を発信する土地役目を持っている愛知県」の仲間たちは、愛知県の三河国と尾張国、岐阜県の美濃国と飛騨国、紀伊半島の伊賀国、伊勢国、志摩国を一人一人が周り、土地神の愛を繋ぎ合わせる目的で一宮宣言祈りを行ってくれていますが、今月は滋賀県の土地神の思いを繋ぎ合わせるために同行しました。

<近江国で行った場所>
建部大社(近江国一宮)、藤ヶ崎龍神、御上神社&三上山
近江国には総社がありませんので、一宮である「建部大社」に向かいました。

※祭神の「ヤマトタケル物語」もご覧下さい。http://takebetaisha.jp/yamatotakeru/story_1/

◎建部神社 祭神
・本殿:日本武尊 (やまとたけるのみこと)
・本殿相殿神:天照皇大神 (あまてらすすめおおかみ)
 相殿神は、天照皇大神でなく天明玉命(あめのあかるたまのみこと)とする場合も見られる

・権殿:大己貴命 (おおなむちのみこと)

・大神神社(大和国一宮)からの勧請。

・摂社 聖宮神社 (ひぢりのみやじんじゃ)
 祭神:景行天皇 – 第12代。日本武尊の父。

・大政所神社 (おおまんどころじんじゃ)
 祭神:播磨稲日大郎姫命 – 景行天皇皇后で、日本武尊の母。

・藤宮神社
 祭神:布多遅比売命 – 日本武尊の妃。

・若宮神社
 祭神:建部稲依別命 – 日本武尊の子。

・末社 行事神社
 祭神:吉備臣武彦、大伴連武日 – 日本武尊の家臣。
 祭神:弟彦公 – 日本武尊の家臣。

・箭取神社 (せんとりじんじゃ)
 祭神:石占横立、尾張田子之稲置、乳近之稲置 – 日本武尊の家臣。

・蔵人頭神社(膳夫神社)
 祭神:七掬脛命 – 料理の神

・大野神社
 祭神:草野姫命 – 当社遷座以前から祀られていたという地主神

・稲荷神社
 祭神:稲倉魂命

・八柱神社
 祭神:藤時平、融大臣、事代主命、市杵嶋姫命、素盞男命、豊玉彦命、櫛名多姫命

・桧山神社
 祭神:伊邪那美命、大山祇命、息長足姫命、武内宿禰大臣、住吉大神本社境内北方にある御旅山に鎮座する、境外末  社。熊野神社、山神社、鞭指神社を合祀し改称した。本社境内には遙拝所がある。

以前は、この白い鳥居の先に本殿があったそうですが、いわくつきの話しがいくつも残っていると地元の女性が教えてくれました。

「桧山神社」は、御旅山にあった本殿を移していますが、伊邪那美命・大山祇神・息長足姫命(神功皇后)・武内宿禰・住吉大神をで祀っていたことを考えると、表に出せない天皇家の母神たちの思いを守り納めているとわかりましたので、正式な言葉でご挨拶するとお礼のお言葉と共に今後の生きる道を教えて下さいました。

 

 

桧山神社メッセージ)

やまつ、云われなき思い多々あれど、その思い多々あるなかでも本物のこともあり。

その見分けせずして思い捕まれば、それ足らず・・・神の思いに届かず。

しかしながら、神の思い持ち運びて神の御心繫ぎたもう心あるならば、その思い、国そえ賜えて、神の心として合わせよと我申し上げる。よろしく頼みます。

問題は、その左手にある「武富稲荷神社」でした。

見るからに、ものすごく強い神気を発していますが、なぜ、ここまで強い力が出ているのかわかりませんので全員に心を整えて入るように伝えました。

稲荷社の神言葉には、この土地を守ることの意味や重要性とともに、「大事なものを守っているが言葉にはできない」と無言で言われましたが、私達の神事に力を貸してくれることは約束して下さいました。

 

(武富稲荷神社メッセージ)

いつしかお前たちが来てくれることを望んでいたし、よくここまで来てくれたと感謝をする。

そして、この土地にいわゆる云われがあるが、当時のことはもう良い。

お前達がなすべき役目を果たすために、我も力を貸す。

この地を守り続ける事は大変だぞ。

しかしながら、その思いを持つ者がいるならば、この前へならえ。

 

※このあとの状況

最近、家族と一緒に滋賀県に家を建てて移り住んだ女性に対し、神様は最初に真っ赤な布をかぶせてくれて ・・・ 神番、古い土地神たちの力があなたを見守りますよという意味で赤い布が与えられました。

二番目に真っ白な布をかぶせくれて ・・・ 神役目として働くために白い布を頂きました。

三番目に黄色い筒で淵が黒いものが渡されて・・・これは全てのいろんな思いをバランスよく調和するものなので、その力を使って上手に生きなさいとで滋賀県在住の女性へ渡されました。

本気で住む土地の神の思いを守り継ぐ気持ちがある事を神様は見てわかったのでしょうね。

◎八柱神社

通常、大きな神社を立てる場合、最初に、神職だけが神を守るための石碑に神の名前を彫った六角柱の石柱を置きますが、「八柱」となると「封印」を感じますが、よけいな言葉を発せられないほど静かな女性の神言葉の裏の思いを私は感じました。

(本殿メッセージ)

みまするは、この土地賜えまして、三つ巴合わせ賜えて、国賜えて囲みまするはこの三つの思い。

その意味まとめまするは、それぞれの思いなり。

この地、治め守りまするは高々の神々の思いあれど、それよりも深き悲しき思いもたくさんありまする。

この重き思いを汲み取り賜えて、神の御身で、前合わせ下さりますること、御、心より感謝申し上げております。

御地(おんち)、ご統治下さいます神の思いを、心情なりまするもの、心より感謝申し上げ奉り申す。

 

(解説)
国のまとめを役目として日本武尊に、一歩下がって横守りに伊勢番の天照大神を二番目に置き、後ろ守りで出雲の大己貴命を三番目に置いてます。

三つの大きな民族が関わっている土地だからこそ、争い無くまとめる為に、先住民のまとめ役として日本武尊がまとめました。

民族の名前を、神の名前に変えて祀ってあるという意味です。

一宮の建部大社のご挨拶を終えたあと、自然神と土地神を繋ぐ意味で琵琶湖の龍を祀る「藤ヶ崎龍神」へ向かいました。

途中、滋賀県にお住まいの方から「瀬田の唐橋」のいわれを聞かされながら唐橋を通ると、橋の柱に埋められた巫女達の思いが身体に乗ってきたので封印を外す祈りを行いました。

唐橋の人柱になった巫女達を祀ったのが、建部大社の「八柱の結界」だとわかりました。

 

◎建部大社近くの瀬田川にかかる唐橋に伝わる伝承「俵籐太の百足退治」・・・(滋賀県の女性の説明)

「俵籐太の百足退治」の話しは、太平記、御伽草子などに載る有名な話ですが、龍と百足(むかで)に表された新旧勢力の抗争についての話しだと思われます。

たまたま滋賀県の友達から預かっていた雲住寺蔵版「俵籐太略縁起」によると、吉岡さんが車から降りて御霊上げをした石碑の後方に雲住寺があり、この雲住寺は俵籐太の末裔の寺で、現住職が仏縁によって平成6年に「百足供養堂」を建て、以来毎年10月21日,百足の命日に供養会をしているそうです。

そして、今年で百足退治から1068年になることから、百足退治が946年、平安時代中期の事だとわかります。

さらに「俵籐太略縁起」では、琵琶湖南に2千年前から住む「龍の訴え」によると、『三上山に養老年中(717~24)から百足がおり、化生となって動物や魚を獲ること甚だしい、今に至るまで我らの敵である、そのうえ我らの一族も滅びてしまった。我らの力ではどうしようもない、そこで俵籐太に百足を討ってほしいと懇願した』とあります。

私たちは今回の神事で「瀬田唐橋」近くの「建部大社」から「藤ヶ崎竜神」に寄って野洲にある「三上山」に行ったのですが、まさに三上山と瀬田間の出来事は、三上山をご神体山とする「御上神社」のかなり変わった祀り方を見てもわかるように、三上山で強力な思いを封じ込めていることがわかりました。

三上山を百足が7回り半取り巻いている…「その昔のたぶん拝みをしている方々がいらっしゃると思いますが、その者を制圧し京都の恐れ多き天皇家の霊界魔術を使って、絶対に喋らないように横に道真公を置き…(吉岡さん)」という点ですが、権力抗争があったことを記す百足退治の話しと、御上神社の変わった祀り方は関係があるように思いました。

※御上神社の変わった祀り方とは、藤原道真公を本殿左に祀っていることです。

百足を退治した俵籐太とは藤原秀郷のことで、この秀郷は平将門を討伐したことでも有名で、各地域を平定していった人で、平将門は怨霊として扱われています。さて、この故事がなぜ瀬田川にかかる唐橋かというと、瀬田川は唯一琵琶湖から大阪湾に流れ出す川で、途中京都の宇治川、やがて大阪の淀川へと合流するとても大事な川だからです。

以下、瀬田の唐橋wikiより

東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡る、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要があり、瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。最初に架けられた橋は両岸に生えていた大きな藤の木を利用したつり橋で、景行天皇(日本武尊の父)の時代に丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋が架けられた。神功皇后の摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱。

忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

壬申の乱(671年)では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。御霊神社の主祭神は大友皇子である(『日本書紀』 天武天皇 上 元年七月)。

これが「瀬田の唐橋」の文献上の初見である。藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764年)では、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回り。これを焼く。押勝は高島郡に走り、滅びた(『続日本紀』 淳仁天皇 天平宝字八年九月)・・・引用以上

以上のことから、瀬田の唐橋は「俵籐太の百足退治」の故事に代表されているというだけで、一つの逸話に込められた数々の歴史的な背景、権力闘争の場になっていたことがわかりました。

天武天皇の時代に、建部大社が現東近江市から大津市の瀬田に移された理由は、宮司も知らないようでナゾだったのですが、この資料から天武天皇による日本武尊の力を使った大友皇子の怨霊封じの意味もあったかもしれないと思われます。

こんな話しを聞きながら琵琶湖の東側を車で走らせていると、比叡山や比良山系の山々がとても美しく見える場所で、私と巫女の身体にどんどん御霊達が集まってきて、鎖で繋がれながら琵琶湖に沈められた人たちのシーンが見せられましたが、その数、230名!第三国人と思われる人たちの魂転生をどこかでしなければいけないので、次の「藤ヶ崎竜神」で行う事を決めました。

一人一人、磐座の中で祈ってもらいましたが、

穴(女性の陰部)の中に入るということは、女性の子宮の中に入ると同じ意味があります。

ここに命の精気が宿り、命を産み出すための大事な場所として昔から祀られております。

八大龍王が守る場所としても言われておりまするが、それはあとのことで、もともとはその、小さな静かな自然神の繋がりのもとの命の繋がりを受け止める場所でございます。

だからこそ、「どうぞ女性たちの自分の子宮との繋がりの祈りをしてくださればうれしく思います。」とお言葉を頂きました。

◎「藤ヶ崎竜神」

琵琶湖側に祀っているのは龍神ですし、陸地側に祀っているのは「女性の子宮」の意味の磐座ですので、命の繋がりを繋ぎ守る場所を誰かが神の啓示で受け取り祀ったものだと思われます。

今も、きちんと管理されていることを考えると、こういう人たちがいるおかげで琵琶湖の恵みが与えられているのだと思い感謝し、岩の裏側から御霊達を上げて、命の再生を祈りました。

 

◎御上神社

由緒より:当神社は、古来「御上神社」と称し「三上神社」とも称した。又、三上大明神社・三上大明神・三上山大明神・三上社等と称した事が諸記録に残る。

御上神社の問題は、本殿左側に「藤原道真公」を祀っていることです。

藤原道真公は、私が京都の封印解除神事で祀る意味を解き明かしましたので、すぐに、言葉が降りました。

「悪気があってここにいるのではない。そのことだけはわかっておくれ。」

この言葉ではっきりと、過去の思いの押さえつけの為に藤原道真公を本殿の左側に置いていることが判明しましたので、本殿で過去全ての封印や押さえつけられている思いを解き放つことを申し伝えると、美しい神光の七色オーブたちと共に「祝福」の印が示されました。

御上神社の神体山・三上山は、標高432m「近江富士」ともよばれ、俵藤太(たわらのとうた=藤原秀郷)のムカデ退治の伝説で知られます。

山は二つの峰からなり、男山・女山とよばれ、頂上には巨石の盤座があり奥宮が祀られ、旧暦6月18日には山上祭が行われ、神体山信仰の姿を伝えている山です。

山道の途中のコンクリートを「六角で囲んだ場所」にも何かを封じ込めていることをオーブが教えてくれました。

※女山についた時刻を考えると男山へ行くのは無理でしたので、女山から男山の上にいる神様に直接、繋いで神言葉を頂くことにしました。

 

◎三上山山頂(女山)のお社の神言葉

役番が違いますが、そのままお伝えることにします。

これからが本番なのですかね。

私たちが守ってきたものは、もっと大きなもので、もともと大きなものが上から降りたからこそ、その力を守るために3名の巫女がこの山にこもり、その命を、魂のエネルギーを繋いでおりました。

昔々の話でございますがゆえに、そのことを語り継ぐ者がおらず、ただその精気、エネルギーだけが残っておりまするが、誰もそのことがわからないからこそ、山の神と言ってみたり、違う神と言ってみたり、いろいろな神と言いますが、私たちはもともとこの山の裾野に住んでいたものではなく、この山に天からの光を繋ぐために来たものでございます。

「宇宙からの指示」と言いましょうか・・・。

その三本の御柱を立てるために、ここがひとつの「始まりの場所」としての印を作るために、この琵琶湖という湖の生命エネルギーの「東(あがり)の役目」を果たすために、そして、天との繋がりを創るために、そのために拝んでいた巫女たちがございます。

その中の1名は「鏡族の巫女」であり、そしてもう1名は「アマテラス巫女」であり、そしてもう1名は「出雲のツクヨミの巫女」でありまする。

この3名が力を合わせてこの山に繋ぎ合わせることによって、本来の「倭鏡の神鏡」が生まれたのでございます。

この倭鏡、神鏡を守り繋ぐ一族として、元々いた者たちの巫女たちとの繋がりを繋ぐことで、鏡族というものが働いておりましたが、それは、天鏡、地鏡、水鏡という3種類の鏡だけではなく、倭鏡、神鏡という本来の、この地に大和の力を繋ぎ守りたてるための役目があったからこそ、その大和の神力(かみぢから)を繋いだ巫女たちの力があったからこそ、この地、関西の地に天皇の神の御柱を立てることができたのです。

そのことがあったからこそ、この関西の地の一番大切なものを守る地がここでありまするが、これを裏にすることによって裏守りとさせ、その表鏡として京都関西の表鏡の神番をやられている方はほとんどの方が男性たちですが、本来の大切な命鏡、神鏡、倭鏡を守っているのはここにいらっしゃる3名の巫女たち、「鏡巫女、アマテラス巫女、ツクヨミの巫女の3名」でございます。

どうぞ、そのことの魂の繋がりを繋ぎ合わせることで、この国日本のひな型を大和の地まで運んだ民の思い、神の思いを汲み取って下さいませ。

どうぞこれからの皆さんの働きを見守っておりますので、よろしく、よろしくお願い申し上げ奉ります。

 

(吉岡の解説)

ヤマト国は、元々は、九州にあったんですよ、大和の元のひな型は・・・。

国始まりは九州なんだけど、神の啓示で日本の西の地に持ってくるようにと言われ、一団が動きました。

出雲族もその後の伊勢族もそうだけど、日本の西の地で日本国を納めるための神場所を探さなくてはいけないわけで・・・

いろんな山も繋いではいるけれど、この関西一円の中の「東のたて守り」としてこの三上山を選び、「東の天降ろし」をここで3名の巫女でやっていらっしゃるようです。 すごいのは、アマテラスとツクヨミと鏡族でやっていることですが、鏡族はもともと琵琶湖に住んでいらっしゃった巫女集団で、常神半島から滋賀県に入って住んでいたからこそ、鏡族の巫女の力を借りたわけです。

この鏡族の巫女達のルーツは、ほとんどがヨーロッパ系から来ていることまでわかっています。

※宮古島の池間民族のルーツも、同じ、ヨーロッパです。

ヨーロッパから大型船で渡って来て、沖縄の各島を経由してから日本海に入り、北九州、宍道湖、常神半島を経由して、琵琶湖の周りで生活をしていたのが、6000年前くらいの話しなのです。 鏡族の文明の中にある神守りは、ほとんどが「宇宙の祈り」が中心です。

宇宙と星に向けて祈ることしかしていないんですよ、この鏡族の方々は・・・。

その祈りには、「鏡」を使って繋いでいました。

※現在、琵琶湖の北側にたくさん見つかっている銅鏡が証拠です。

鏡族の力に、出雲族と伊勢族の巫女たちが力を合わせて、ここで神守りの場所を作りましょうということで、3名合わせて「東の柱の番」をしたわけです。

だからすごい場所ですよ、この三上山のエネルギーは・・・。

この三神がいるからこそ、滋賀県の琵琶湖の収め力となっていますし、三上山に東の役目を置く事で「希望の守り場」となっています。

琵琶湖の東を三神で収める意味は、琵琶湖を女たちの祈り力で「裏」を守らせることで、京都や奈良の男たちの「表」の天皇家争いや念争いに負けない守りをここで完成させています。 御上神社の藤原道真公は、そういうことを絶対に「喋るなよ!」という意味で本殿の左側に置かれていますが、それは天皇家の過去の争いを収めをさせる意味もあります。

藤原道真公は公家(くげ)ですから天皇守りには当然ですが、これだけきれいにやらせたのは崇神天皇みたいです。

一昨日の「天川村の神事」でも、崇神天皇の名前が出ましたよね。

何か、よっぽど重要なことをここでもやってるようです。

第10代崇神天皇という存在は、唯一、ルーツが明確な天皇とされていますが、そのことも含めて過去の様々は問題や因縁くさいものを裏にする、蓋をする意味の存在なんだと思います。

そんな話しをしていると、光が山の形になって神オーブを見せてくれましたが、これは完全に神様達の祝福のサインです。

今回は時間が足りなくて、東竜王の女山までしかいけませんでしたが、12月7日に関西メンバーと愛知県メンバーの合同神事を行いますので、どうぞ、お力をお貸し下さい。過去、現在、未来の全てを愛と歓びにするために、私達は頑張ります!!!

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