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「吉岡一門」の関わりのある土地に行ってみました。

「吉岡一門」に関する情報を調べるために、「京都の八代神社」を訪ねましたが、二度目でした。

先代宮司は竹内紀雄名誉宮司になっていらしゃったので、詳しく話を聞くと、宮本武蔵と吉岡一門との戦いの記録はあるが、「吉岡一門」についての資料は何もないとの返事。

元々、宮本武蔵も、佐々木小次郎も、日本中の武士の流派は、全て「吉岡一門の武士」が、あとから自分で名付けた流派なので、この場所の戦いも、吉岡一門同士の身内争いだとわかりました。

 

帰り道にあった家の壁の「六文銭」の家紋は、吉岡一門の武士が戦って負けた時に、必ず、「三途の川を渡れるように」と懐に入れる「魂の渡し船のお金」の意味ですので、この家紋の家は、「吉岡一門の武士の家」だとすぐにわかりました。

いろんな人たちが八代神社にやってきて、「自分は吉岡の統領だ」と言って、「刀があれば見せてほしい」と言う人がよく訪れるそうですが、吉岡の家紋が入った刀は、ひと竿1億円を超える刀がたくさんあるので、どうせ、高く売りたい商人か盗人だと思います。

 

「武士」について正しくご理解頂きたいので、初めてご説明します。

武士」は自分が仕えるお殿様の命令で動く立場なので、国を守るために自分の意思とは関係なく人を殺さなければいけない役目だったので、現在の日本国を守る「自衛隊」と同じだったと思って下さい。

 

なぜ、武士が「日本刀の剣術訓練」をするかと言うと、「戦わないため」なのです。

本物の武士は、向かい合っただけで相手の実力と気迫を体で感じて動けなくなるので、「参りました」を先に口にすることで無駄な人殺しをしないために、「精神鍛錬と日本刀の修行」を一生涯、続ける役目なのです。

江戸時代から明治時代までいた武士は、現在の公務員のように、自分が所属する藩からお給料を頂くか、もしくは、小作農が作る田畑を管理し、年貢を納めさせることで生活ができた時代が日本は長く続きました。

 

武士の身分が高い人間は、「加賀百万石」と呼ばれたように小作農が作るお米の※「石高(こくだか)」が収入源であり、お殿様から報奨金をもらって自分の家族と小作農の家族を養っていました。

お殿様同士の国と国の争いごとのせいで、人を殺さなければいけない立場にあったからこそ、「家長制」という特別な制度で守られていたのが「武士」なのです。

 

(武士の家長制度の特徴)

土地を所有できるのは、天皇家に認められた「お殿様」だけですので、お殿様から許可を得て預かった土地を小作農に耕させて管理していたのは「武士」であり、その土地や財産の相続に関しては、一切、税金がかからず、自分の次の家長(長男)に渡せたからこそ、一切、武士の財産が減ることはありませんでした。

この方法は、「国の財産を減らなさい方法」でもあったので、とても賢い方法だったと思います

 

しかし、貧乏な藩主のせいで隣の藩に戦いをしかけて人を殺して、相手の領地を奪いあった理由は、お殿様やわがままな武士だけが贅沢をしていたからこそ、貧乏を我慢していた「百姓一揆」が全国に広がり、大きな混乱が日本中に広がりました。

後醍醐天皇のご領地であったの吉岡家の先祖地の「富山藩」では百姓一揆は起きていませんし、吉岡のご先祖たちが周りの藩の農家たちに米を配っていたことも父から聞いていました。

 

「人間は苦しい時こそ、武士も平民も関係なく、助けあって生きるものだ!」

と吉岡一族は教わりますので、武士も農民たちも「子供が財産」だからこそ、たくさん子供を産む女性たちをとても大事に守っていたそうです。

 

長く続いた徳川幕府を終わらせるために、薩摩藩と長州藩が手を結び、「江戸城無血開城」によって1868年にできた明治政府は、「富国強兵」をスローガンに掲げましたが、明治政府にお金がなかったため、全国の藩を取り潰して現在のような「廃藩置県」を行い、「藩主を知事」にして、武士の田畑を「国の管理下」に置き、一生涯、「国民から税金を搾り取る制度」に変えてしまい、現在に至ります。

 

財産も国に奪われ、守る藩主もいなくなった全国の貧乏な武士たちは、江戸(東京)に集まり、現在の「警察の代わり」をして治安を守っていましたが、人数が増えたので、全て蝦夷地(北海道)へ送られて、「自分で田畑を耕して生きろ!」と命令されました。※江戸千人隊=八王子千人隊

 

日清戦争・日露戦争・第一次大戦で、なぜ、日本は勝ち続けたか?

それは、戦って死んだのは、全て精神修行と日本刀の訓練をしていた「武士」だからです。

日清戦争

日露戦争

第一次大戦

 

1945年の終戦後、さらにGHQは、日本人を徹底的に骨抜きにするためにあらゆることをしましたが、1871(明治4)に「廃藩置県」が行われ、武士が管理していた土地を国が没収したあと、1876年に【廃刀令(はいとうれい)】が出たため、日本中の「武士」が刀を持ち歩くことを禁じられ、そのあと刀は全て没収されました。

 

日本全国の武士が持っていた最高級品の刀は、全て北海道に運ばれて、私が「元服(げんぷく)」した12歳の1971年まで、私の家と本家に隠してありましたが、北海道のどの警察署長も口を出せないほど、我が家は有名な「吉岡一門の武士の頭領の家」なので、最後の刀を父が警察と役所に持って行き、「国で管理しろ!」と言った日まで家に日本刀はたくさんありました。

 

もし、あなたが武士の家系で、今も「武士」だと名乗るのなら、日本刀を振り回すだけでなく、刃こぼれした刀を自分で研げなければ、「本当の武士」とは言えません。

 

これは、「吉岡一門のルール」であり、刀を作る「刀匠」も、全て吉岡の血筋の者ですし、長男と次男が交代で、「刀の腕を磨く役目」と「刀鍛冶」を交代に代々、息子たちが引き継いでいたので、刀鍛冶も武士も、すべて「吉岡一門の親族」なのです。

 

吉岡一門の血筋のものしか知らない「吉岡の恥」のせいで、長男と次男の一族が真っ二つに割れて、日本海側に「南朝の武士」、太平洋側に「北朝の武士」が集まるようになりました。

※この「吉岡の恥」は、すべて神事で終わりましたのでこちらをお読み下さい。

 

富山藩(富山県)をまとめていた「吉岡一門」の武士たちは、3男まで残して、4男以下と小作の農家を連れて、すべて北海道の中心部(上川郡・空知郡・石狩郡)に移住して、米と野菜を作る農家になりました。

 

吉岡一族は、「家督」は長男へ引き継ぎ、「武士の頭領は次男」に引き継ぐことが決まっているため、私は3歳から「日本刀の練習」を始めましたし、6歳から刀を研ぐ技術と必要なものも全て父に教わり、毎日、修行と訓練を続けました。

 

太平洋側で作った刀は「南部藩の鉄」を使って作りますが、日本海側の武士は、「富山藩の特別な鉄」を使って作るので、もし、本気で戦えば、一発で南部藩の刀を真っ二つにすることができるほど、硬い日本刀で有名ですので、ひと竿で国が買えるほど、とても高価な値段で取引されていたそうです。

その理由は、富山県のある山で取れた砂鉄が一番硬いので、「吉岡一門」の血筋の刀は価値が高く、1970年代の価値で1竿1億円以上のものがたくさんあるそうです。

 

私の父が祖父を打ち負かし、「吉岡一門の頭領」になった時、自分の「家紋」を決めて、吉岡一門の全ての刀に「吉岡一門の家紋」を入れさせたので、どこにいても、「本当の吉岡一門の武士の血筋の証明」として、「刀に家紋」を入れたそうなので、刀を見れば「吉岡一門の武士」かがすぐにわかるようになっています。

 

私が手にした吉岡一門が作ったの最後の日本刀は、日銀の三重野総裁と相談して、すべて防衛省のある場所に隠しましたので、私以外は、誰も手にすることはできません。

 

刀は飾るものではなく、人の命を奪うものだからこそ、私に「本気の勝負」で負けた父は、私の刀でさえ、国に預かってもらうと決めて送ってしまいました。

 

いづれ、正式に国と天皇家が「吉岡一門」のことを認めれば、表に出せる日もあると思いますので、どうぞ、お楽しみに

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