「第53回沖縄戦戦没者慰霊祭」に参加して
2017年6月23日、札幌 護国神社で行われた「第53回沖縄戦戦没者慰霊祭」の遺族会の追悼祈りに参加し、感じたことをここに記録しておきます。
20代の頃から母の付き添いで何度か「沖縄戦戦没者慰霊祭」に参加したことはありましたが、今回は母が高齢のためもう行けないので、自分の意思で参加した慰霊祭の体験はまったく違う意味を感じました。
第二次大戦で亡くなったのは私の父の長男の「叔父」ですが、当時20代なかばの青年が、沖縄で命を落とすまでの軌跡を初めて遺族会の代表者の言葉で知りました。
私の叔父(吉岡力)は、5代前の先祖が北海道の中央部にある芦別市へ富山県から渡ってきてから開墾した田畑で農業を営み、12人兄弟姉妹の長男として生まれました。
明治政府の廃藩置県で武士の息子たちは長男しか家に残せなかった時代だからこそ、富山県家から北海道へ移住する決意をしたのが5代前のご先祖の一団です。
「家長制」が厳しい武家の教えは農家を営んでいても同様に厳しく、男子たるもの、長男たるものという教えに従い、叔父の「吉岡力」は国を守るため、家族を守るためにすすんで戦争へ行ったと、中学生の頃に祖母から聞きました。
吉岡力の弟の叔父(吉岡信)もそのあとすぐに戦争へ行きましたが、終戦後、戻ってきたので、いろんな戦争体験を直接、聞いたのも私が中学2年の頃でした。
私の父は三番目の男子でしたので、父に、「戦争へ行きたかった?」と聞くと、即答で、「俺も兄貴たちみたいに戦争へ行って死にたかった!」と本気で言っている父のまっすぐな思いに自分を照らし合わせたのが中学生時代でした。
当時の私は、人間を信じられず自殺を企み、いつも死ぬことばかり考えてた時だからこそ、父の言葉と叔父さんたちの体験から自分勝手に死ぬことの愚かさを考えさせられました。
父も亡くなり、戦争で亡くなった方たちの思いを引き継ぐ役目があると感じたからこそ、「沖縄戦戦没者慰霊祭」に出た時に父のお姉さんたちがたくさん戦争当時の辛い対兼を話してくれましたが、吉岡力叔父さんが戦地でどのように亡くなったのかは誰も知りませんでした。
ただ、「戦争は嫌だ!嫌いだ!辛かった!」としか言わない女性たちの思いとは別に、この戦争で私達が学ばなければいけないことはもっとあると感じていました。
私の母方の父(祖父)も戦争で右足を無くしていますので、子供の頃から「チンバの娘」といじめられたことが母にとってはもっとも辛い体験だったそうです。
私は母の想いよりも「自分は戦争で死ぬ覚悟があるか?」を自分に問い続けて生きてきたからこそ、戦争の良し悪しではなく、感情論でもない、「本気で人が人の為に死ねるのか?」を初めて考えさせられたのが、戦争で亡くなった叔父の死でした。
今回、護国神社の横に戦没者たちの全員の名前を黒御影石に彫ってある中に、おじの名前を見つけ、また、思いが深くなりました。
吉岡力(りき)叔父さんは、旭川第7師団から満州へ行きましたが、戦況が変わったので満州から沖縄へ移動し、第24師団に配属され、北海道旭川の師団長のもと、「山部隊」と呼ばれた足腰の強い一師団として戦ったそうです。
最後の戦いは、首里城の北西にある「浦添高地」の激戦で亡くなったと聞きました。
遺族会の人たちは戦後、遺骨を拾いに沖縄へ行ったそうですが、当時の暑さや無残な遺体を地元の人達が丁寧に埋めてくれたと聞き、感謝はしたのですが、遺族に持って帰る骨がないため、そこに落ちていた石を拾って護国神社の遺影の土の中に埋めたそうです。
終戦から72年を迎えて、やっと叔父さんの軌跡を知ることができ、英霊たちの最後の思いに寄り添えた体験ができたことに心から感謝いたします。
これまで何度も沖縄で神事を行ってきましたが、あえて、戦争の御霊たちの意識には触れないようにしてきた理由は、自分の叔父の思いを理解していなかったことと、一方的な思いで戦争を語ってはいけないと思っているからです。
宮古島の先輩たちから聞いた言葉や、沖縄本島で戦争体験をした先輩たちの言葉の裏には、言葉にしない複雑な思いがあると感じたからこそ、私はその思いを汲み取ってただただ亡くなった全ての御霊たちに感謝の祈りだけをしていました。
昭和20年6月23日に沖縄戦が終結したことで本当は日本の敗北は決まっていたのですが、ここから終戦の8月15日までの間に、日本中から特攻で散った人や、戦地に送られた若者たちや、満州でロシアの捕虜となり命を落とした人たちがたくさんいます。
小学生の頃から学校で竹槍の軍需訓練をさせられ、教育勅語を暗記できないとビンタされる母の体験談も、戦争体験を伝える人がいなくなった今の時代の象徴として沖縄戦の戦没者の祈りに参加されているのは、70代以上の方たちだという実態が残念です。
私達国民は戦争の是非を問うよりも、戦争に対する正しい事実を伝える責任があると思っていますが、皆さんはどう思われますか?
沖縄戦の犠牲者は、日米軍人も合わせると20万人余りとされ、沖縄県を除く都道府県の中で最も多い10,800余名の戦没者が北海道の地から散っています。
いつか、沖縄戦の地で、叔父の魂と向き合える時が来ることを願って、沖縄の人たちの思いに触れながら一緒に鎮魂祈りを捧げることができましたことを感謝いたします。
(沖縄戦の軌跡)
太平洋戦争末期の沖縄戦は、もっとも重要な軍事的拠点である沖縄本島を中心に、住民を巻き込んで繰り広げられた、史上、稀に見る激戦であった。昭和二十年(1945)四月一日に沖縄本島に上陸した五十四万の米英連合軍に対し、沖縄守備軍は第三十二軍の六万七千、海軍一万のほか、地元動員の防衛隊員を合わせても、十一万たらずであった。艦船、航空機等の保有数も米軍が圧倒的に多かった。米軍は嘉手納基地に橋頭堡を築き、南北に別れて進撃した。日本軍は首里に司令部をおき、四月六日には米艦船群に特攻攻撃をかけ、多大なの損害を与えた。四月十九日から米軍が総攻撃を開始、守備軍も主力の第二十四師団(北海道出身将兵が多い)を首里攻防戦に投入した。日本軍は五月四日には総攻撃に出たが、兵力の多くを犠牲にし、火砲も破壊され、戦略持久体制をとらざるを得なくなった。米軍は首里を取り巻く高台地帯を占拠し、司令部を直撃した。首里戦線で、守備軍の主力部隊は破壊的な打撃を受けた。日本軍は南部への撤退を決め、五月三十日、摩文仁の洞窟陣地を司令部とした。米軍の猛攻撃を受け、大田司令官の率いる海軍部隊は玉砕した。六月十四日から米軍は守備軍の最後の防壁である丘陵地帯を占拠し、摩文仁に仮借無い砲撃を集中した。六月二十三日、日本軍の牛島司令官が自決し、組織的戦闘は終わったが、最後の日本軍守備部隊が降伏文書に調印した九月七日まで、交戦が続いた。沖縄住民を除く日本人戦没者七万七千名のうち、都道府県別では、北海道出身将兵が一万八百名と最も多かった。昭和四十年(1965)九月二十七日、北海道沖縄会が、北海道出身の戦没者を祀るために、沖縄戦英霊記念の碑を札幌藻岩山麓の私有地に建立した。平成二十三年(2011)六月二十三日、札幌護国神社の彰徳苑に移転・新築し、御影石に戦没者の名前を出身地ごとに刻銘した。