「魂の封印」を完全に解き放つ!!

第三国人、虐殺命令を出した戦後の日本

◯親の教え

1945年の終戦後、密かに「国の命令」で、日本の全ての「財閥」に以下の命令が出ました。

第三国人 を一斉に、排除せよ!

当時の財閥は、日本国内と、第一次大戦まで侵略した他の国の「経済的支援」を目的に、湾岸整備や道路の拡張舗装工事、山林を切り開いて家を建てたり、新しい建築物を作り、「行政の要」となる郵便、警察、通信などの建物などの整備をしました。

 

 

そのために、日本から特別な機械と技術者を船で送り、作業は「現地の人間」で対応して、あらゆる場所の建築土木工事を行いました。

現地の未開発な山林を切り開き、田畑にして食べ物を作る指導も行い、「文化的地域貢献」もたくさんしましたが、同時に、優秀な労働者の親に賃金を渡して、「若い労働者」を日本へ送り、日本全土の危険な場所で橋を作らせたり、ダムを作るために川の水を堰き止めて行う河川工事や、危険な道路の地下工事などをたくさんさせました。

当時は、アメリカ、ロシア、中国が日本を攻めようとしていたので「対ロシア・対中国対策」として北海道全土と、日本海側のありとあらゆる場所で、「第三国人」を強制労働で使い、国力の復活を目指しました。

この工事は、軍事的な目的と、海外に負けない日本にするために国の指導で「財閥」に命令し、短期間で完成させるために、「タコ部屋」で強制的な労働をさせました。

※「タコ部屋」の意味は、こちらでお読み下さい。

しかし、「1945年の終戦宣言」が発令されるとGHQが乗り込んできたので、「強制労働」の実態が世に出るのを恐れた建設省関係の官僚と政治家たちは、「第三国人一斉、排除」を財閥に命令したため、炭鉱、湾岸工事、山や川で工事をしていた「タコ部屋」で働く「第三国人」たちを一斉に虐殺しました。

浮かばないように足に重りオモリをつけて湖に沈めたり、山の土砂の中に生き埋めにしたり、高い崖から突き落として川に流して殺しました。

日本中にある「絞首刑場所」も、そのひとつです。

私が行っている「地球創生神事」は、日本中の山の中や森の中でこういう御霊たちの声をたくさん聞きますので、日本人としてのお詫びと、魂の転生を願った祈りもたくさん行いました。

都会のビルの建築現場でよく「白骨死体」は出ますが、この事実を知っている建設関係の人たちは、日本中の工事で出た「白骨死体」は粉々にして粉砕し、すぐに土の中に埋めて隠します。

当時の日本政府は、軍事費にお金を使い過ぎたため、「財閥」に命令して工場や燃料となる炭鉱などの「タコ部屋」で「第三国人」に作業させていた事実を隠し、「日本人だけでやった工事」と偽り、「官僚たち」は、第三国人の氏名や住所が書いてある書類を全て焼き捨てて事実を隠蔽しました。

私の北海道の知り合いの祖父が「タコ部屋のNO2」だったので、働いていた第三国人の実家のリストを隠し持っていて、息子たちを「湖」に沈めたあと、自分一人で、中国、韓国、台湾のお父さんお母さんに会いに行き、土下座してお詫びしたことを自費出版で書いた実録本を見せてもらいました。

北海道で最も財閥が出資したのは「石炭の産出」なので、夕張、赤平、砂川、奈井江、釧路などに、たくさん「第三国人」を送り込みました。

「炭鉱の町 芦別」は多くの財閥の炭鉱が穴を掘る工事をしたので、立坑もたくさんありますが、戦後も最後の最後まで「石炭」を掘る仕事をしていたことで有名です。

工業的に使う石炭や、大きな軍艦の燃料も全て「石炭」でしたし、蒸気機関車も石炭ですので、北海道、九州など日本全国の炭鉱には、日本人と共に働く「第三国人」がたくさんいたことを、私の父は当時のことをこう話してくれました。

終戦記念日のあと、他の炭鉱は第三国人を立坑に生き埋めしたが、芦別の財閥の炭鉱の会社は「第三国人」を解放し、「強制労働はなかった」ことにしたので、食べ物も住む場所も与えられなかった「第三国人」が、芦別中を歩き回り、食べ物を探して納屋にある米や麦や野菜をかっぱらいにきたので、俺は、そいつらと交渉したのさ。

 

お前たちも「職」を奪われ、住むところもなく、食べ物がないので大変だと思うが、俺たち農家もこの食べ物を作るために1年間、必死に働いて貯めたものなので、全部、持っていくことは許さん!

 

もし、食べ物が欲しいなら、家族が何人いるのか、子供が何人いるのか教えなさい。

 

保存方法を間違うと、たくさん持っていった食べ物も腐ってしまうので、必要な食べ物と保存方法を教えるので、お互いに助け合って生きていこうじゃないか!

 

苦しいのは、お互い様だ!

と本気で怒ったため、相手も仲間達と相談して、この家の食べ物は勝手に持って行かないように「決まり」ができたと教えてくれました。

そして、父はこう言葉をつけ加えました。

今、日本は戦争に負けてとんでもない状況だが、これはいずれ、おさまる。

 

問題は、「子供たちの教育」だが、「第三国人」の子どもたちは、俺たちが行く学校には行かせてもらえないので、俺がお寺の住職に頼んで、内緒で「夜の寺子屋」をやってもらったのさ。

 

お前たちの時代にも、学校で顔を見たことがない子供や大人がお寺に来ていたのを見たことがあるだろう。

 

「読み書き」ができないと、社会へ出て仕事をもらえないから、俺が住職と校長先生に頼んだのさ。

 

あいつら「第三国人」の親たちも、きっと、母国で先祖に手を合わせていたと思うので、日本のお寺で手を合わせるだけで心は落ち着くものさ。

 

あの住職も、日本中を一人で歩いた「苦労人」だから、弱い人の心がわかるので、俺が代表してお願いしたんだ。

 

それと同時に、「第三国人」の食べ物をお参りに来た時に渡すようにしたので、奴らは山に戻ってご飯を食べれるようになったのさ。

 

だから、山の傾斜にあるボロな家は全部、「第三国人」の家族が住んでいるので、仲良くしてやれよ!

父は、こう私に教えたあと、山に私を連れて行って、「第三国人」の人たちを紹介してくれました。

お寺の住職も、家族の食事より「第三国人」に食べ物を渡すので、我が家はいつも「ひもじい生活」をしていました。

当時の学校は、天皇や国旗を尊ぶ「日本人思想」を批判していたので、誰も、「第三国人」を助けようとしなかった時代に、父は一人で住職と話し合って、自分の家の食べ物を奉仕しながら支えていたのです。

浄土真宗は、年に一度、「報恩講」と言って、貧乏人も金持ちも差がなく、腹一杯、食べ物を食べる機会がありましたので、私の母は文句を言いながらも「報恩講」にたっぷりお米と野菜を持っていき、お母さんたちと一緒に食べ物を作り、「第三国人」の親子たちに「お腹いっぱい食べなさい」と食べさせて、お米のコゲをおむすびにして、お土産に持たせていました。

自分の家のおかずは1品しかなかったので、私も、その「報恩講」のおかずが嬉しくて、小学生になっても毎年、参加していました。

見た目はコジキのように見えるボロボロの服を着ていたそうで、母は親戚から「お下がり」でもらった洋服や下着の残りを全て「第三国人」のために与えていましたし、町内の奥様たちにも声をかけて、報恩講の時に「第三国人」に洋服を渡す機会を作っていました。

 

「戦争は誰も悪くない!」と泣きながら言う母は、

この「第三国人」の人を捕まえてきた財閥も酷いけど、自分の子供が急にいなくなった「母親たちの思い」を感じると、切なくてたまらんのさ、と泣いていました。

 

「子供を産み育てる苦労は、どこの国の人も同じなのに、どうして、仲良くできんのかねえ」と、また、涙を流していました。

助けてやった「第三国人」の中には、日本人の女子供を犯す奴がいるので、そいつらは警察も手を出せないので、俺たちのルールで処罰するしかないんだ。

 

だから奴らと仲良くしてもいいが、「日本に住んでいるなら、日本のルールにしたがえ!」とお前も子供達に教えろよ!

 

言うことを聞かない奴がいたら、俺に言え!

 

刀でぶっ殺してやるからな!!

・・・・・・・・・・・・・・

こういう事実を子供達にきちんと教えられない人たちは、「生き残る意味」と、「助け合う意味」を勘違いしているし、愛だの、平和だの口にしますが、実際に、戦争に巻き込まれると、そんな言葉は誰も聞きいれてくれません。

今の日本人は、自分のことしか考えない大人が多いですが、生き残るために必死に働いてくれた「昭和一桁生まれ」の人たちが口にしないことをぜひ、自分の耳で聞いて下さい。

「本気の助け合いの心」がある人は、「地球創生SNSの仲間になり、お互いの子供たちを支え合う新しい未来を一緒に作りましょう。

 

スポンサーリンク
◯親の教え
【地球創生】天無神人の活動|地球と人間の存在理由 SaveLoveEarth

コメント

タイトルとURLをコピーしました