【政治家】田中角栄の「日本列島改造論」の真相
あなたは「日本列島改造論」を正しく理解していますか?
日本経済がここまで大きくなれた理由は、第64代、65代の内閣総理大臣、田中角栄が打ち上げた「日本列島改造論」のおかげなのです。
未来の不安を考える前に、どうして戦後の日本が、「先進国の仲間入り」ができるまで成長できたのか?を今日のブログで理解して下さい。
1945年の終戦後、財閥以外は、全ての日本人が「貧乏」でした。
田中角栄も新潟生まれの「貧乏人」だったからこそ、彼は誰よりも夢を描いて、それを周りの人たちに夢を語った人なのです。
大東亜戦争のあとほど、「日本全体が貧乏だった時代」は過去にはなく、必ず、公家や武士たちは豊かだったからこそ、貧乏人は豊かな人たちを支えることで「生きる望み」を持てた時代が、日本の歴史のほとんどでした。
しかし、経済的に豊かになったと思っている2023年の今の日本人は、本当に豊かなのでしょうか?
戦後の日本を大きく変えた田中角栄の生き様から、新しい価値観を見つけて下さい。
※田中角栄(1918年 – 1993年)のプロフィールは、こちらお読み下さい。
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マスコミが伝える情報ではなく、「真実」を知りたかったので、時間を遡って、国会議員になる前の田中角栄と、首相になってからの田中角栄に霊視で話を聞きに行きました。
貧乏を抜け出したいと思った田中角栄は、市議会議員になって、国会議員が集まる場所で真剣に生きている農民の暮らしを少しでも良くなるための提案書を出しましたが、国を動かしていた閣僚たちに一切、無視されました。
そして、実務を担当する「キャリア官僚たちや国会議員」にも見向きもされず、国会議員宿舎の前に座り込みをして毎日、出社する官僚たちに提案書を渡しましたが、全員に笑われました。
まずは、あなたが「国会議員」になって新しい法案を作り、日本の未来を変えるための議案書を国会で答弁できれば、少しくらい聞く耳を持つ人たちが支援するかもしれませんよ。
そう言われた田中角栄は、地元に戻り、自分の思いを語り、「俺をなんとか国会議員にしてくれ!!」と頼み込みました。
何度も落選しながら、やっと、国会議員になって議案書を自民党総裁に提出した時、
君は、まだ若い。
あと三期、連続で国会議員になっていたら、その時はあなたの議案書を読んであげよう。
そう言われた言葉を信じて、いろんな政治家の鞄持ちをしながら、「政治の裏と表」を学び続けた人間です。
その時、彼はこう思ったそうです。
俺一人では何もできない。
俺の提案書を国会で認めさせるためには、「俺のブレーン」がたくさん必要だし、今の「裏を牛耳っている奴ら」の権力構図に食い込む必要があると理解し、あらゆる汚い「汚れ仕事」をたくさんさせられた。
ヤクザ、宗教団体、敵である共産党にも賄賂を渡して、社会党にも俺を理解してくれる人間がいたので、自分の思いを理解してくれる人たちを一人一人、時間をかけて日本をどうやって世界の国々と対等に付き合える国にするのか話をした。
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『田中角栄がすごい!』と呼ばれる理由は、実は、スピーチだけでなく、誰よりも「汚れ仕事」をした経験上、政治家の御曹司とは違った「現場主義」で培った信頼を持っている人間だったからです。
だから、彼のスピーチには、魂がこもっており、本気でこの日本を変えるという強い意志と合わせて、貧乏で苦しむ人たちの思いを最も理解している政治家だったのです。
彼が最終的にロッキード問題で捕まったのも、アメリカが田中角栄を裏切った結果ですが、それほどアメリカは田中角栄の力に怯えていたそうですが、その「裏話」は国防に影響するので、☞「スーパータントラ」だけでお話しします。
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まっすぐで、正直者で、涙もろい田中角栄は、いつも弱い人たちに声をかけながら、自分も同じ貧乏人だったので、「決して、金持ちには俺たちの気持ちはわからん」と、スーツと革靴のまま、田んぼに入り、農民と握手した写真が公開されました。
その写真を見た民衆やマスコミに、ヤラセとか作り話だと言われましたが、実際に、彼は車に5着のスーツを積んでおり、長靴も10足持っていたし、あちこちの田んぼにどんどん入るので、最後の講演会では泥だらけのスーツで熱弁を語っていた毎日だったそうです。
日本で唯一、本気で本音で正直者だった政治家は、誰よりも、辛い体験をしたのに、一切、他人を責めることをしないまま、人生の最後を終えました。
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私は小学生の頃から国会答弁を聞いていたので、「唯一、嘘を言っていない政治家が田中角栄」だったからこそ、彼の若い頃からずっと霊視して、彼の思いと実際の行動を見続けてきました。
こんなに正直者の田中角栄が、本当に嘘と偽りの政治の世界で生き残れるかを見ていた理由は、自分も「同じ正直者」だからこそ、他人がどう言おうが自分が信じたい道を歩んでいる先輩として、常に、目と耳を立てて、彼の動きを見つめていました。
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田中角栄のあるエピソードをご紹介しましょう。
なぜ、私が今の時代に田中角栄のことを取り上げるのかは、このエピソードを読めば誰でもわかると思います。
民衆はいつも、「自分の価値観」で話すからこそ、誰かが、民衆の思いを国会で伝えなければいかん!
一人では何もできない「弱い人間」ばかりだからこそ、どうか、私に1票を入れて、国会で私に皆さんの気持ち伝えさせてくれ!!
お母ちゃん、お父ちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん、あんたの子供はできが悪いが、私はそれより、もっと出来が悪い子供だったので、小学校も中退した人間だ。
だからこそ、たくさん努力して、政治の裏も表も全て学んだからこそ、どうか、俺を「国会議員」にさせてくれ!!
あんたたち貧乏人がいくら集まっても、誰も偉い人は話を聞いてくれんが、ワシを国会に送り出せば、必ず、お前たちの思いを伝えてやる!!
どうか、次の選挙の投票日には、何があっても、「田中角栄」と名前を書いてくれ!
頼む、どうか、この通りだ!!!
そう言って、壇上を降りて、田んぼで田植えをしている農家さんたちに、土下座して回ったそうです。
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こういう田中角栄を支えた人たちが、どれくらい強い思いで彼を支えのたかをこのエピソードから気づいて下さい。
国民一人一人は弱いからこそ、正しい情報を選んで読みこんで、力を合わせて、国を動かす仕事をしている本気の人たちを支えてあげて下さい。
政治の世界では、「市議会議員は10年で力を持てるが、国会議員が力を持つには20年かかる!」と言われています。
国の仕事をしている公務員の多くが、数値的な結果にこだわる仕事をせず、責任を取らないように逃げ回って仕事をしているからこそ、行政の書類を出した人たちが全員、言われて頭にくる言葉が「前例がない!」と提出書類を見てもらえないのが、公務員の実態です。
だからこそ、国に対してトップダウンで話を通せる庶民の代表が、「国会議員」だけなのです。
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私の芦別高校の同級生も、現役の公明党の国会議員ですし、初当選のあとの同窓会の二次会で、私の経験談を全て話していろんなアドバイスをしましたし、全ダ○エー労働組合の中央執行委員の時にも多くの政治家たちと1対1で本気で話し合いしました。
いつも、国会を混乱させる「共産党」の人たちの考えを知りたくて、「財務省官僚の鈴木◯康」に頼んで、会わせてもらった人は、同じ時期に共産党議長として頑張っていた☞不破哲三さんです。
30年前に、「敵を知るなら、まず、味方から」という父から教わった「武士の言葉」を思い出して、自民党の代表者たちや、社会党の代表者たちや、公明党の代表者たちと個人的に会った最後に会った人が、日本共産党の☞不破哲三さんでした。
彼から本音で「日本国に対する思い」を聞いたあと、「私のコネクションがある人間が、中国共産との内部にいるので、日本の未来のために、新しい中国共産党との繋がりを作って日本を守って下さい!」と頼んだのが、私です。
「写真を写されると魂が抜ける」と本気で思っていた人なので、マスコミ用に1枚だけ公開した写真がこの写真だけなので、「絶対に、写真を写させない人」で有名でした。
話の最後に、「次の委員長候補」として紹介してくれたのが、若い頃の☞「志位和夫委員長」ですが、会ってすぐには「敵を見る目」で見られましたが、この国を良い方向へ導く思いは同じだったからこそ、最後は一緒に酒を飲み乾杯しました。
彼の悩みは、「日本共産党 東京支部の代表」をしている人間が、「共産党の内部を混乱させている」ので困っていると話してくれた男が、実は、私が中学生の頃に本気で喧嘩した共産主義の中学校の先生だったので、驚きました。
仕方がないので、裏から彼の発言を制するための「指示」を出して収めました。
日本を今より良くしたいと思っている人ならば、絶対に知っておいて欲しいことなので、マスコミ報道の裏の真実を全てお話ししているのが、「スーパータントラ」セミナーですので、ぜひ、ご覧下さい。