【吉岡一門】「日本の正しいの歴史と日本神話の意味」を初公開します。
現在、「戸籍謄本」と呼んでいる書類は「明治民法」までは「家督相続の書類」と呼ばれており、「長男だけが家長の資産を相続」するのは当然の時代でしたが、アメリカ主導の結果、現在の「戸籍法」に改正されました。
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富山県砺波市からから「北海道芦別市常磐町」に移住した「吉岡一門 頭領」のルーツの戸籍謄本をお見せします。
江戸時代までお金持ちと呼ばれた「加賀百万石(加賀藩「加賀国、能登国、越中国」の石高である100万石)も実は、全て「吉岡一門」の持ち物で、「後醍醐天皇の御領地」でした。
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吉岡一門の頭領が住んだ「富山県砺波市五位村」は、もともと「吉岡庄・吉岡谷」と呼ばれていたし「吉岡城」もありましたが、その当時の時代のことを詳しく調べてくれた人の記事の一部もご覧下さい。
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<吉岡一門 頭領にだけ伝わる日本国の正しい歴史>
朝鮮半島から「天皇家」がやってくる前の時代に、日本の先住民の頭領である「薩摩隼人」が、「日本国の統一」をした時代がありました。
九州の熊本県と宮崎県の境界線にある「高千穂峰」に逆鉾(さかほこ)を刺した人物が「薩摩隼人」であり、当時の本物は今、刺さっている物の約5倍の大きさの刀が刺さっていました。
※当時の「本物の逆鉾」は、日本の裏切り者が破壊しようとしている情報が入ったので、「吉岡一門 八人衆」の一人である日銀 三重野泰総裁が「本物」を隠して下さり、「小さい物」に取り替えてくれました
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日本中の先住民を束ねて熊本県に戻ってきた「薩摩隼人」は、山の反対側に強い霊力を感じたので、熊本県側から「高千穂峰」に登り、中国からやってきて「卑弥呼王国」を宮崎県に作った「卑弥呼」は、宮崎県側から「高千穂峰」を登りました。
山の上で三日間、「霊力争い」をした結果、「共に和合することで民を守ろう」と山の上で契りを交わり、その結果、最初に生まれた女性を卑弥呼が「天照大神」と名前を付けました。
次に生まれた男の子を「神と武力の和合の象徴」となる「神武天皇」という名前を「薩摩隼人」が付けたことが、「天皇家の日本神話」のもとになっていますが、大東亜戦争のあと、GHQが北朝の武士と手を組み、日本の歴史書である古事記も日本書紀の中身を書き換えてしまい、日本人に「先住民の血」が入っていることを消してしまいました。
※「日本書紀の原書」には少しだけ先住民のことが書いてあります。
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「薩摩隼人」が「日本の先住民を全て束ねた」ということは、「日本全ての領地を所有」していたのが先住民」であり、先住民同士で戦って最後に残った八人が三日三晩、戦い、最後の最後に勝った「薩摩隼人」が、「吉岡一門」の始まりなのです。
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先住民には「名前が無い人」が多かったので、「薩摩隼人」は左右対称の中国の漢字を調べても良い文字がなかったので、「日本の始まりの口(言葉)を合わせた「口」の字の上に、武力をまとめた頭領の意味と、大地に剣を刺した逆鉾の意味の「士」を載せた「吉」という文字を最初に決めました。
次の文字は、人間が住む場所は、必ず、丘か山を背負うと「飲める水」が出るし作物が育つので、その山に囲まれた中で太陽を拝みながら生活する意味の「岡」という字を作り、「日本人の苗字の始まり」となりました。
それ以外の苗字は、全て「吉岡一門の八人衆」が苗字を与える許可を出したので、山の下に住んでいる民は「山下」と名付け、大きな木の下に住む民は「木下」、山から流れる川のそばに住む民は「山川」、大きな石の上に住む民は「大石・大岩」や、「石上、岩山」、「石下、岩下」と苗字をつけて「吉岡八人衆を支える小作農」になりました。
つまり、苗字に「自然界の文字」が入っている苗字は、全て「吉岡八人衆の武士の小作農がルーツ」だとご理解下さい。
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当時の階級制度は、「士農工商」ですので、「武士、小作農、工業職人、商人」という身分制度が明確にありました。
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<日本人の苗字のルーツは?>
日本人の苗字の1位は、全国人数およそ185万3,000人の「佐藤」さんですが、「高貴な武士の家の藤棚」を守る「佐官や剪定職人や大工」がルーツです。
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2位の「鈴木」さん(全国人数178万6,000人)は、田んぼの四隅に「木の棒に鈴」を付けて田畑を奪われないように守っていた「小作農」がルーツです。
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3位の「高橋」さん(全国人数139万9,000人)は、町と町をつなぐ大切な橋の上手(かみて)側の高い場所に住んでいた人についた苗字です。
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4位の「田中」さん(全国人数およそ132万6,000人)は、家の周りは全て田んぼの中に住んでいる小作農の苗字です。
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5位の「伊藤」さん(全国人数106万5,000人)は、「尹」は「丨」と「又」を組み合わせた漢字で「右手で杖を持っている」様子を表現しているので、これに人を表す「亻(にんべん)」を合わせて「杖を使って神様を呼び寄せる聖職者」を指す意味なので、「土地の神社」を守る役目をしていた一族の苗字です。
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武闘派の先住民8名が最後まで戦いあった「吉岡八人衆」だけは同じ「吉岡」を使うことを許し、太平洋側を進むと決めた4名(北朝派)と、日本海側を進む4名(南朝派」とに分かれ、「共に協力し合って新しい日本国を育て上げよう」と別れ別れになりました。
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「霊力で人間の思考を動かせるほどる霊力」がある卑弥呼王国のトップである「卑弥呼」は、同じ思いの大巫女たちと意識で通信し合い、「戦いの無い新しい国を作りましょう」と、日本全国の大巫女たちの祈り部隊にメッセージを送り、ヨーロッパやアジア諸国から運んできた「食べ物の種」を日本中に広めて狩猟民族だった先住民と一緒に暮らしながら、食べ物を与え育ててくれる自然界の神々に対して「自然崇拝」を教えました。
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これが、「日本の自然崇拝」の始まりで、「吉岡一門 頭領」にだけ伝わる「吉岡一門 秘伝書」の巻物の最初に書かれている内容で、吉岡学が12歳の時に全て暗記しました。
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卑弥呼だけは、太陽神の「天照大神」に手を合わせながらも、実は、もっと上にいる宇宙神の「瀬織津姫」を拝んでいたので、宇宙からのメッセージを常に受け取り、自然災害の予知や啓示を伝えて民を守っていたので、吉岡学にはその力が生まれる前から備わっていたのです。
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「吉岡一門の頭領は、子供の頃から朝の日の出前に起きて太陽を拝む「天照大神崇拝」が日常で、まだ暗いうちに目が覚めるように守護神に起こされるので、いつも夜中に起きて一人で祈りをしていました。
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この「自然崇拝」に加え、自分に命をつないでくれた「先祖崇拝」が先住民に残っている理由は、卑弥呼と薩摩隼人の二人に対する「感謝の祈り」ですので、「仏教」が教えている供養祈りとは大きく意味が違いますので混同しないで下さい。
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私の父は「仏教の両手を合わせる所作」が大嫌いで、「なぜ、両手を合わせるのか?物もらいと同じじゃ無いか!」と怒っていましたが、死ぬまで両手を合わせることはせず、ただまっすぐ立ち、心の中で黙祷していましたが、私が12歳で頭領になった時、「ここまで仏教が広がっているので父さんも手を合わせた方がいいよ。」と言うと、素直に手を合わせてくれました。
<吉岡一門が北海道に入った武士のルーツ>
北海道に入った一番最初の南朝の武士である「吉岡一門の頭領」は、「吉岡文吉」で、吉岡学の曽祖父にあたります。
「吉岡宇右エ門」の長男である「吉岡文吉」は、嘉永4年(1848年)12月9日生まれですので、明治18年(1885年)3月、富山県砺波郡東五位村より転籍来住と書いてありますので、37歳で、500名の小作と武士を引き連れて、まだ雪が残っている北海道を開拓するために苫小牧の港から「芦別市常磐町」にやって来たそうです。
芦別市は現在865平方キロメートルですが、昔は「日本一広い市」として有名でしたが、市町村合併の結果、51位になってしまいました。
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「常磐町」は42.5平方キロメートルですが、なぜ、「吉岡一門の頭領」が「常磐町」に住んだかと言うと、明治時代に日本政府より早く日本海側を渡り、北海道の苫小牧市の海から船で500名の小作農を連れて入り、豊かな山々に囲まれた土地で水と微生物といろんな鉱物がたくさんあることを確認したので、時代の流れに合わせて芦別市常磐町で「コメ農家」として生きる決断を曾祖父がした結果です。
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曽祖父は、翌年、「住める場所が見つかった」と富山県に報告し、明治19年(1886年)12月20日に、正式に「38歳で家督」を相続したとありますので、富山県まで行って、父親と真剣勝負をして勝ち、親兄弟姉妹を斬り殺したのだと思います。
それが「武士の頭領の吉岡一門のルール」であり、親を殺された子供たちに「果し合い」をさせないための「頭領の思いやり」であり、「武士は非情ある」ことを示す意味もあるそうです。
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明治33年(1900年)10月21日、「本籍地変更届受付」とありますので、正式に吉岡一門の武士をまとめる「吉岡一門の所在地」は、富山県から「北海道芦別市常磐町」に変わりました。
そして、1971年1月10日の12歳の私の誕生日に、吉岡本家で行われた頭領交代儀式の日に、富山県に連絡をした吉岡の祖母から、「お前が新しい頭領になった報告をすると、もう富山県の土地も家も売っぱらって誰も本当の吉岡一門はいなくなったので、「日本全国の吉岡一門の守り地」を北海道芦別市常磐町にする!」と言われたさと言われ、驚きました。
この意味は、九州の熊本県から島根県の出雲に渡り、岡山県に渡り、京都に渡り、富山県にいた吉岡一門の最後の場所が、北海道芦別市常磐町であるという意味になりますので、「全国の吉岡八人衆」のご家族には通達が回りました。
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4代前の「吉岡文吉」は、明治37年(1904年)4月19日午後7時死亡、20日受付と書いてありますので、56歳で、息子の「吉岡西蔵」と果し合いをして負けて殺されたことがわかります。
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私の祖父の「吉岡西蔵」は北海道を開拓した「最初の頭領」として、小作と一緒に北海道の西半分(上川、空知、石狩)を開拓して小作と一緒にコメ農家を始めました。
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芦別市常磐町の「川下」と呼ばれる地域に住んでいた「吉岡文吉」の子供は、長男・吉岡幸蔵、次男・大八郎、三男・菊蔵、「四男・西蔵」、五男・興作といましたが、四男・吉岡西蔵が元服(12歳)した時に、父親と果し合いをして勝ち、全ての兄弟と親を殺し、吉岡一門の頭領となりました。
これが、「吉岡一門の頭領の厳しいルール」ですが、私の父親の吉岡忠もこの戦いに参加して叔父や従兄弟を日本刀で切った体験を話してくれました。
そのあと、私の父の吉岡忠も12歳で元服して父親の西蔵と戦い勝ちましたが、「父親や兄弟姉妹を殺したくない」という理由で吉岡一門の本家を出て「小作」となって自分一人で農業を始めて、兄と私を産み育ててくれました。
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私の父の「吉岡一門の頭領」が、戦った相手を殺さなかった噂が日本中の武士に伝わり、「吉岡一門の頭領は弱気だ!」と噂が広がり、日本全国の「北朝の武士たち」が父に戦いを挑みに芦別市までやって来ましたが、父は圧倒的に強いので、私が父を負かす8歳までは自分一人で多くの武士を斬り殺していました。
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戦後の1945年にGHQが「日本の武士」を無くす目的で「武士の領地」を国がとりあげて小作農に分け与える「農地改革法」が施行されたため、「小作農」は喜びましたが、日本国の安全と平和を守っていた「武士」は生きる術が無くなりました。
「農地改革」: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9
「3度の廃刀令」:https://www.touken-world.jp/tips/55417/
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1962年に吉岡学(8歳)が、吉岡忠(38歳)を負かした日からは、果し合いを挑みにくる武士の相手は私になり、多くの武士を斬り殺しました。
芦別市常磐町の子供達をさらいにくる人間や、娘たちを犯す犯罪人の大人が来た時は、小作と一緒に追いかけて、最後に首をはねるのが私の役目でした。
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1971年1月10日、吉岡学(12歳)が正式に本家で「元服の儀式」が行われる日、北海道中の「先祖が武士」の北海道知事や国会議員や警察官や役人が本家に集まりましたし、500名を超えていたので、吹雪の中、雪の上に座ってお膳を食べているところに、「昭和天皇も挨拶に来たい」と電話が入り、祖母にどうするかを聞かれましたが、「お客様も多いし雪と風が厳しい寒い日」でしたので丁重にお断りしました。
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父・吉岡忠に刀で勝った8歳のある日の夜、一晩、かけて教えてくれた吉岡一門の全ての「真実」は、世の中に出ることはありませんし、初めて公開しますので真実の歴史を覚えて下さい。
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「明治18年(1885年)3月、富山県砺波郡東五位村より転籍来住」した38歳の南朝武士の頭領である「吉岡文吉」は、父・吉岡宇右エ門と日本の未来がどうなるのかを話し合いました。
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明治時代の戸籍には載っていませんが、もっと古い時代は「吉岡城」もあり、富山県のほとんどの土地は吉岡一門の持ち物だったので、後醍醐天皇のご領地を頂いた「吉岡庄」という記録が残っています。
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「北朝の武士」たちが、1867(慶応3)徳川慶喜に「大政奉還」を迫り、1868(慶応4)戊辰戦争から「明治維新」を起こして「明治政府」を作り、1869(明治2)江戸を東京に遷都し、1871(明治4)廃藩置県、1873(明治6)富国強兵のための「徴兵令」、明治六年士族の反乱で西郷隆盛が立ち上がり、1876(明治9)武士の刀を没収する「廃刀令」が出て、武士の思いを蔑ろにした北朝のやり方がひどいので、1877(明治10)西南戦争に応援部隊を出して戦いましたが、間に合わず、西郷隆盛が死に、鹿児島の薩摩藩とうまくやっていた貿易の利益を奪うために、1879(明治12)沖縄県の設置(琉球王国の消滅)、1889(明治22)「大日本帝国憲法の発布」の前に北海道に渡りました。
➡️詳しくは、幕末・明治の日本の歴史辞典をお読み下さい。
https://www.kodomo.go.jp/yareki/chronology/index.html
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「北朝の武士」はいつも政治家と手を組み、庶民の懐からお金を巻き上げることばかりを考える浅はかな人間たちですので、吉岡一門の頭領である「吉岡文吉」は、沖縄のように北海道を「北朝」に取られる前に北海道へ渡り、「アイヌと同じ先住民の血筋」なので仲良く協力しあって北海道を開拓した結果、北海道の西側には食べ物が豊かに育つようになったのです。
北海道の西半分のコメ農家は、全員、「南朝の武士」ですのでアイヌと一緒にうまくやっていましたが、あとから北海道の東半分に入った「北朝の武士」はアイヌと揉め事をよく起こすので、私の父・吉岡忠が「北朝の武士」たちとアイヌの問題を解決するためによく出かけていきました。
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アイヌが大事にしていた北海道の大自然ですから、北海道の国立公園も国定公園も、「吉岡国立公園・吉岡国定公園」という名前になり、国土地理院発行の地図もありますし、正式な書面として明治天皇の印鑑を押してある書類は私がある場所に隠してあります。
北海道知事だった「堂垣内尚弘」さんは海軍省官僚出身で国会議員を目指していたので、自分で正しい歴史を調べている時、嘘で固められた北朝の歴史書以外に、「吉岡一門の歴史」があることを知り、吉岡本家で歴史書を読ませてもらい、12歳で頭領となった「分家の次男」の私に会いにきてくれて、わざわざ、自分の息子を芦別高校に転校させて、私を守るために支えてくれた一人です。
堂垣内尚弘さんが発行した『北海道道路史』(共著、北海道道路史調査会、1990年)には、吉岡一門の記録を残し、初版本を私に送って下さいました。
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「北海道は2018年9月に(1868年から)北海道開拓使が置かれてから150年を迎えた」と嘘を北海道民に伝えていますが、現在の赤レンガの場所に1件のボロ家を建てて「北海道開拓使数名」が住まいして、「土地の測量」をしていただけなので、正式には北海道をまとめたことにはなってはいません。
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日本国政府が正式に「北海道の県知事所在地」として札幌に「北海道同庁」を置いたのは明治19年(1886年)ですが、その1年前の明治18年(1985年)に北海道に移住していた吉岡一門の農家(武士たち)に「挨拶がない」と、私の父・吉岡忠と祖父・吉岡文吉が「北海道同庁」に正式な吉岡一門の着物を着て日本刀を腰にぶら下げて乗り込んだお詫びをさせたそうです。
日本政府よりも早く、1885年に吉岡一門が北海道をまとめていたので、2024年の今年でも「139年目」ですが、この事実を無視して勝手な歴史を書いている日本政府の北朝たちは、日本を裏切る「詐欺師」としか言えません。
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北海道の名付け親の「松浦武四郎(文化15年2月6日〈1818年3月12日〉 – 明治21年〈1888年〉2月10日)」は、三重県松阪市の庄屋に生まれ、北海道に渡った「吉岡一門」のことをよく知っていたので、北海道まで一人で旅をして歩き、北海道のアイヌたちにいろんなことを学びながら最初の北海道の地図も作っていたので、当時の明治政府に頼まれて国の仕事を手伝いました。
しかし、武士制度を無くしたり、日本を取り上げる北朝の明治政府のやり方に反対し一度は国の仕事をやめましたが、アイヌと仲良くした最初の武士として「北海道の名付け親」と呼ばれています。
あまりにも礼儀を知らない「北朝の武士」たちと、庶民を苦しめる政治家が世の中の動かしている日本なので、これでは日本の若者たちに希望が生まれません。
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皆さんがお住まいの土地の歴史を調べたとしても、きっと同じように北朝の学者や研究員たちが勝手に歴史を書き換えていますので、どうか、自分で正しい歴史を調べて、「搾取がない労働対価に見合う収入が得られる日本国」を新しく作り直しましょう!
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新しく物事を成し得る時に大事なことは、目先のお金に囚われず、自分の利害を優先せず、まずは、自分で食べ物を作ること、綺麗な水や土地や海を汚さず、大事にして子供達に与え残すことと、未来に残せる「先祖と自然崇拝の神仏心教育」をしっかり教えられる大人になることです。
日本国を最初に束ね、あとからやってきた来た「天皇家」を支え続けた吉岡一門のご先祖と、戦いの無い「和」という文化を持って、日本国を建国した卑弥呼と薩摩隼人に心からの感謝と、申し訳ない思いを捧げます。ありがとうございます。
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本日、1月30日は、芦別市常磐町に一人で住んでいる私の母・吉岡栄子の91歳の誕生日ですので、この日に「正式な吉岡一門のご報告」ができたことをご先祖に感謝いたします。
https://www.youtube.com/watch?v=aA46W4DnZyY