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【全省庁】なぜ、日本国は真実を国民に伝えないのか?その訳を教えます。

日本の歴史書を調べても、先住民の頃の話でも、江戸時代から日本国を支えた「武士の吉岡流 吉岡一門」のことを書いた本がない理由は、徳川幕府討幕に力を貸した武士たちの中に、昔からお金に走った「北朝の武士」たちがたくさんいたので、日本政府に入り込んで国家公務員となり、明治、大正、昭和の時代の混乱に乗じてGHQと手を組み、「歴史の事実」を消しまくった結果なのです。

天皇家の最大のカルマと言われている「南北朝時代」の文献や日本書紀や古事記や日本神話も書き直したのが「北朝の武士」が国家公務員となった「宮内庁」・「神社庁」・「文部省」の役人たちなであり、「お茶の裏千家」も、「池坊」も全て吉岡流 吉岡一門から別れた流派なのです。

 

2023年に、裏千家の次の頭領に出会ったので本人伝えましたが、自分で家元の文献を調べるように言うと、「今までの嘘がクリアになりました」とお礼を言われましたが、上からの圧力があるので、焦らないように伝えあります。

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全ては時期が来たら裏切り者は成敗いたします。

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私が「吉岡一門の頭領」になった12歳の時に、父・吉岡忠に聞いてみると、「どこの役所にも北朝と南朝の武士の家系の人間がいて、天皇交代に合わせてやっていたはずだが、いつも誤魔化すのは北朝の奴らだから気を付けろよ!」と教えくれました。

 

「自分の目で現場に行って事実を調べる力もない人間が増えているせいだ」と嘆いていましたが、それも時代の流れなら仕方がないと諦めていた父でした。

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私が正式に元服した12歳の1971年1月10日の「吉岡一門頭領交代式」の翌日に、父は大事な「吉岡一門の頭領の正式衣装」も全て焼き払いましたし、天皇家に男種を入れ続けた証明となる「秘伝書」も、自分と私の日本刀や小作農家に貸していた日本刀も全て国立図書館の裏の部屋に送ってしまうほど、「日本の将来に武士はいらないと諦めた頭領(父)」でした。

 

「実際に燃やした重要な書類はコピーで、原本はある場所に隠してある」とあとで知りましたが、この意味は、「親の物を何でもタダでもらえるものだと期待するな!」という甘えを断ち切る方法だと大人になってから教えてくれました。

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30代の官僚時代にそのことを思い出したので国立図書館を訪れて、裏に隠してある「吉岡一門の全ての物」を見せてもらいましたが、「吉岡一門のルーツ」は神武天皇を産んだ「熊本県の薩摩隼斗が父」であり、「宮崎県の卑弥呼が母」であるという「証明書」も全てその箱の中にありましたし、「三種の神器」の霧島連山の主峰 高千穂峰に刺さっていた「本物の先住民の刀」も、日銀 三重野康総裁が入れてくれたので、現在のダミーにするしか真実を守る方法が無かったことを残念に思います。

 

「北朝の人間」が「天皇家に先住民の吉岡一門の血が入っていることを証明する物を奪い取ろうとしていたための対策です。

その箱の中には、「三種の神器」の勾玉も二つ対でありますし、「本物の卑弥呼の御神境」も大事に保管してありますので、ご安心下さい。

この2枚の鏡には、三国さんごく時代の中国の年号が刻まれています。一枚は正始せいし元年の銘がある豊岡市の森尾もりお古墳出土鏡をモデルにした復元鏡

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現在もそうですが、神社を束ねる「神社庁」が「裏金」をもらって「吉岡一門」の記録を消す側になったのも、国の裏切り者の「財務省官僚の鈴木友康一族」がお金をばら撒いて、京都の「護王神社」の土地の権利書の名義を書き換えてしまうほど神社庁のお偉いさんたちは「金欲に走った人間が多い」と思って下さい。

 

しかし、書き換えられたものは「偽物で本物の京都 護王神社と裏の敷地全ての権利書」は隠してありますので時期が来たら土地も全て奪い返して、賠償金を請求します。

このように、「南朝の後醍醐天皇」のことも、「吉岡一門の真実」も、「天皇家に先住民の血が入っている」ことも、「神社本庁」が裏切っていることを知っているまともな神社の宮司たちがいるからこそ、「神社庁に入らない神社」が今もたくさんあるのです。

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「神社本庁」は、1946年(昭和21年)1月23日、「神道指令」に伴い、大日本神祇会、皇典講究所、神宮奉斎会の3団体が中心となり、神社本庁を設立したとありますが、「二つの団体が裏切った」ことも父から聞いています。

「南朝の明治神宮」の周りの土地である神宮外苑(明治神宮・神宮球場・国立競技場・ラグビー場etc)は、「全て明治神宮の収入源」で、全て明治天皇の持ち物だと、明治神宮の禰宜(ねぎ)さんに教えてもらったこともありますまが、宮司がお金儲けに走っているので、いづれ売り払われる」とぼやいていました。

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現在、明治神宮の全ての土地は、「宮内庁」が管理していますが、東京大空襲の跡地に「日本全国中から寄付された太い木々を売り払い」、マンションを建てたり商業施設にするようですが、きっと、日本国を見守り続けた「南朝天皇家のご先祖と吉岡一門のご先祖」が許すとは思えませんので、神職及び、近隣住民の方はどうぞ、御覚悟下さい。

また、「明治神宮の敷地が明治天皇の持ち物」だというとことは、南朝天皇を支え続けた「明治神宮は吉岡一門の持ち物」だということになりますが、「吉岡一門の頭領」である私に一切の連絡もないので、私も絶対に北朝の人間がやったことも、日本政府がしたことも許ししませんので、北朝の人間と日本国を裏切っている人間全てのご先祖を潰しますので、どうぞ、御覚悟下さい。

 

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「即位の礼」と大嘗祭

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現在の今上天皇も「南朝」ですし、「南朝の明治天皇」に「神武天皇と書いた神札」を天皇家に渡す役目が「吉岡一門の頭領」だったからこそ、天皇交代の時は新しい「神武天皇の神札」を私の父の吉岡忠が書いて宮内庁へ持参し、天皇に直接、渡してから立つ位置を交代して、父の吉岡忠に神札を渡すことで「天皇家と吉岡一門の頭領の立場」が明確になり、北海道芦別市の常磐町の本家にその神札を祀り、自分で書いたもう一枚の「神武天皇の神札」を自分のお宮に飾るのが、吉岡一門の頭領の”しきたり”でした。

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天皇の交代式である「即位の礼」と大嘗祭は、父・吉岡忠も出席して天皇を見守る役目ですので、「催事用の父の正式衣装(白と黒)も預けてある」と教えてくれました。

 

私の兄が「俺は、絶対にコメ農家を継がない」と言い切ったのは結婚して30代を超えてからのことだったので、その時の父の落ち込みようはすごかったです。

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父は、「長男にコメ農家を継がせたい」という思いだけ「コメ農家」を頑張っていましたが、「次男のお前にやる分は何もない」という理由で、私を大学まで行かせてくれたのです。

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父と母と二人で借金を返しながら広げた六町歩(6ヘクタール)の町一番の田んぼをどうしたらいいかを聞かれた時、初めて「お前、農家をやらないか?」と聞かれましたが、労働組合と官僚の仕事が忙しい時だったので、「いつかはやりたいけど今は無理」と言うと、半分の田んぼを売ってしまったくらいやる気を失った父でした。

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「武士は刀」を持って威張りたいのではなく、日本国の安全を祈りながら「警察の代わりに悪者を成敗する役目」として毎日、訓練して民を守り国に認められていた役職だったので、1967年に、私が芦別高校を卒業するまでは悪者を成敗するために、北海道のどこの農家の家にも日本刀は持っていたし、悪人を成敗しても警察が文句を言えない理由は、国に求められた「十手」を持っていたので、日本国の法律で警察と同じ権限を持ち、天皇家に認められていた職位が、「吉岡一門の頭領」でした。

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「武士」は日本国の正統血統として存在する「天皇家」を裏からお守りする「職位」であり、その最高の職位が「吉岡一門の頭領」なので、宮内庁も、神社本庁も、「吉岡一門の頭領より格下」なので、父は「全ての国のやることを報告しないで良い」と言いましたが、私はその許可を出していないので「私の命令」に背いた全ての北朝の人たちと、その人たちに手を貸した全ての人間を成敗します。

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「吉岡一門の頭領である吉岡忠」は小作農家たちの結婚を祝い、苗字を引き継ぐ男の子に祝儀を渡し、苗字が無い第三国人たちにも苗字を与え、学校教育を施したほど、寛大な頭領でした。

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「日本の苗字と戸籍の始まり」は、「武士の吉岡一門の頭領」だけしか持っていない権利でしたが、江戸幕府を倒した薩長連合は新しい国作りだと言って国と天皇家を守る「吉岡一門の役目」をことごとく奪ったので、明治18年3月に、「アイヌの地の北海道」へ初めて移住した和人の一族なのです。

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ここで大事なことは、吉岡一門の頭領が住んでいた「富山県砺波郡東五位村」で親族会議を開いて、北海道へ移住しても良い小作農たちだけ連れて行ったことと、最後の最後まで「富山県砺波郡東五位村」に住んだいた吉岡一門の武士と小作農たちもいたのですが、結局、「頭領」が北海道へ行ってしまったので渡した小判を使い果たし、小作農家に土地も家も売ってしまった最後の1件が出ていった翌年の、2008年に富山県の先祖祈りをすることになりました。

 

【富山県】吉岡家の先祖祈り 1 富山県砺波郡東五位村

 

富山県砺波郡東五位村を出ていった最後の吉岡家の連絡先を聞いて電話しましたが、「最後の頭領が直接、電話くれるとは思っていませんでしたが、こっちも生きていくのが大変だったので、富山県砺波郡東五位村を黙って出たことを許して下さい」と言われただけでした。

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結局、いくらお金を渡しても、自分で「コメ農家」をできない武士たちは、お金を使い果たしてしまうので、北海道に移住した祖父の兄弟も同じように父親からもらった財産を全て「飲む打つ買う」に使ってしまったので、真剣勝負で成敗するしかなかったと父も残念そうに話してくれました。

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それでも、金を稼ぐことより、「コメを作ることが日本国を守ることに通じる」と信じて、「本家の頭領」の立場を捨てて小作農家になったいさぎよい父ですので、私はその生き様に多くの感銘を受けて育ちました。

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映画「峠」で松竹の小泉堯史監督が伝えたいことは、いかに、薩長連合の明治政府が「吉岡一門」のことを消したかったのか気づいて下されば嬉しいですが、新潟の長岡藩も、石川県の加賀藩も、「全て吉岡一門の殿様」だったのですが、私が監督に「吉岡一門の名前を出さずに無念な気持ちを伝えて下さい」とお願いした映画なのでとても苦労したと後で教えてくれました。

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もともと武士だった薩摩藩も長州藩も、徳川幕府討幕の結果、「明治政府」を作りましたが、武士の時代よりも酷い「賄賂の日本国」にした罪は重いと思っています。

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坂本龍馬にほだされて「薩長連合」に加わった西郷隆盛は、長州藩の政府構想と意見が合わず薩摩藩に戻り、武士の頭領の北海道芦別市常磐町の吉岡の本家に、「西郷隆盛が詫び」として送られてきた「薩摩藩の貿易の品々」は、本家の家を取り壊す時に、父が「西郷隆盛が勝手に送ってきたものだから送り返せ!」と言った結果、現在の「鹿児島県 薩摩伝承館」に全ての品物は現在も飾られています。

それと、実際の吉岡本家の家を取り壊す時に、あまりに庭園が素晴らしいので、そのまま移設するために鹿児島から専門職をよこして、大型トラック何台にも分けて、庭全体の写真を写し、石や草木や苔まで運び、そのまま鹿児島県まで運んで再築した場所が、「鹿児島県歴史・美術センター黎明館」の建物と庭ですので、どうぞ、ご覧下さい。

 

私が自分で傷をつけた柱の傷や、天井につけた傷もあり、いかに吉岡本家の家が大きかったがわかると思いますが、10年以上かけて富山県の職人が作った本物ですが、富山塗りの建具や太い柱8本は、そのまま業者に売られてしまいましたので、どこかの家に使っていると思います。

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2023年11月12日、「鹿児島県 秀水園」に宿泊、翌日、鹿児島 砂むし温泉 指宿白水館の社長に会いに行きましたが不在だったので、吉岡本家に飾られていた「薩摩伝承館」の品々を見に行き、祖母がひとつひとつ丁寧に飾ってあるものの意味を教えてくれたことを思い出しました。

 

1971年の頭領交代式には、「鹿児島県の指宿 白水館創業者」であり、薩摩焼のコレクターの「下竹原弘志社長」と、息子さんの下竹原啓高さんがまだ三菱商事にいた頃、ご挨拶に来てくれたことを覚えていますが、最後にお会いしたのは本家の家を壊す時だったので、お会いできなくてとても残念でした。

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数少ない世の中に残っている「富山藩の記録」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/30/Supplement/30_39/_pdf/-char/ja

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2-9.富 山藩 における武術教育II
四心 多久 間見 日流和 に―つ いて―

石黒 光祐(富 山商船高等専門学校)

 

前回は、富山藩.における武芸・武術教育に関する概略について発表したが、今回 は、富 山藩に於 いて一番多く行 わ れ た柔術 、即ち四心多久 闇見日流について 武術家とその系譜について明かにしよ うとすることを目的とした。

 

2,方法
この度 、四心多久問見日流和の免許が発見された。それは足立師範より明治24年に11代目として認可された森田滋次郎(重信)の許状、目録等である。 また、遺徳を称える石碑群等を中心資料として研究を進めた。

 

3,結果と考察
この目録によると、目録の最後に「歴代師範の銘」が歴然とし、花押(はなおし)までが押されている。まず足立平陸という人は 、二代藩主 田正甫の天和 年問に高山から富山に来て四心多久間流和を藩内に広めた人で、字は正保と言った。

前田正甫藩主は、彼の高弟渡澄長右衛門繁正を召し抱え、貞享4年(1687)、 道場を与え藩士の柔術の奨励に努めたのが、富山藩柔術の最も占い記録である。

そして、享保13年(1728)には、島田庄次郎理啓、須田半次郎義重の2人に許状が渡された 。かくてこの二人がそれぞれ 門人を取り立てて 、四心多久間流和を伝承し繁栄させたのである。富山市大泉の高源院(曹 洞宗)の 前 に吉岡重政の墳の1部が存在す る。(戦災により二段から上が粉砕)

1「富山県 柔道史」にも述べているように、吉岡は富山藩の元祖の渡辺繁政の門人と推測されるとしてい る。それは、この墳の建立者が2段目の石に門人や関係者60数人の名が刻んであることから推測される。

大沢野町には、丸岡善太郎の碑が残っており、藩内に広く行われていたことが伺われる。 ここには、門人103名の名が刻まれており、偉大な師範であったことが偲ばれる。

五代目の由田忠兵衛教能、六代目・永井與右衛門、(富山県柔道史の与左衛門は誤記)の名は目録に留めるのみである。

文政6年(1823)剣術は、天眞自井流 高柳新十郎、吉田奥之蒸、柔術では、改心流と天神藁揚流の奥義を極めた鈴木伴次郎を採用した。

又、四心多久問見日流・天神眞揚流の指南役 として伊藤忠元(柳 永齋)、吉田傳左衛門直義らが子弟を教授し、富山藩の柔術は盛んとなった。

 

幕末から明治28年 に大日本武徳会富山支部が設立されるまでは武術道場を中心として発達した 。 即ち 、吉田傳左衛門の吉田道場 、 黒田正好 ・黒田正郡の黒田道場、池淵柳富斎(天 神真揚流)の 池淵道場、斎藤理則の斎藤道場(剣 術・柔術)等隆盛を極めた。

このことは現存する呉羽lllの石碑の門人の刻銘により実証されよう。

 

4,結 論

富山藩における柔術は、四心多久闇流和では、足立から11代 目森田までの師範の系譜が読み取れ 、改心流 、天神眞揚流 、講道館柔道までの流 れ が解明 された 。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/30/Supplement/30_39/_pdf/-char/ja

 

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