【防衛省】3.11東日本大地震を映画にした「THE DAY」をすぐにご覧下さい!
この映画の主役を「役所広司さん」にお願いしたのは私ですが、「映画 VIVAN(別班)」を含めて真実を伝え残すために数本の映画を作りました。
現場で国を動かす仕事は30代で辞めましたが、「2011年3月11日の東日本大地震」のあとの3月13日に、東京都知事の小池百合子に「スパコン京と富嶽のデータ公開禁止を破ると国家反逆罪になる」と言われたので、国民の皆様のために「吉岡一門の国家資産」で映画を作るように仲間に指示を出しておきました。
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一般公開する日は、早くても遅くても民衆はすぐに忘れるので、「2023年6月頃に公開にしろ」と指示を仲間達に出しておきました。
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実は、「吉岡一門の資産運用」をしてくれていた日銀の三重野康総裁には、「吉岡さんの言うとおりに全て指示に従った結果、吉岡一門の資産を証券にして増やしたお金は全部使ってしまったので、もうありませんからね!」と言われていました。
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そのことを思い出したので、東日本大地震の体験から学べる映画制作をアメリカ大統領補佐官だったジョン・ボルトンに電話してみると、「ワーナーブラザース映画に知り合いがいるので頼んでみる!」言ってくれましたが、全額は無理と言われたあと、「吉岡学にはお世話になったのでオバマ大統領が自分のお金を出してもいい」と言ってくれたおかげで、日本人が気づくための映画を作ることができました。
それくらい「吉岡一門の資産」を運用して、たくさんのお金をかけて防衛省の武器や装備をたくさん開発して防衛費に出ないように日本国を裏から守り続けていたので、とてもありがたい申し出だと感謝し、出資して頂きました。
加えて、日本政府がこの映画の放映を禁止しようとしてもできないように制作会社が「アメリカのワーナーブラザーズ」なので、本当にありがたいと思いました。
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日本を守るために動いてくれたアメリカの友達よ、ありがとうございます。
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この映画の冒頭に、「事実に基づく物語」と表示されている理由は、1990年代に防衛省の特別統合幕僚長の時に、太平洋側の全ての原子力発電所の施設内に、「極秘で特殊なマイクロカメラと音声を拾える装置を開発して100個以上、設置する指示」を出しておいたので、実際に、2011年3月11日に福島の原子力発電所内の現場で起きていた人間模様のやりとりを記録した「マスター音声&動画」を出演者に見せて演じてもらったので、「事実を基にづく物語」と表示できるのです。
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この映画を見ればわかりますが、菅直人総理大臣のバカさ加減を止める人間がいなかったことと、東京電力の幹部たちの「汚い現場押し付け主義」に挟まれながら戦ってくれた現場のトップの吉田昌郎元所長の病室にも行きましたが、被曝量が多すぎた手遅れだったのが残念でした。
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日本を救った男-吉田昌郎元所長の原発との壮絶な闘いと死
https://www.nippon.com/ja/currents/d00093/?pnum=2
「お疲れさまでした。本当にありがとうございました」
7月9日午前11時32分、吉田昌郎・福島第1原発元所長が亡くなったという一報を吉田さんの親友からもらった時、私はそうつぶやいて胸の前でそっと手を合わせた。
吉田さんは、最後まで原子力発電に携わる人間としての「本義」を忘れず、「チェルノブイリ事故の10倍」規模の被害に至る事態をぎりぎりで回避させ、文字通り、「日本を救った男」だった。今も東京に住み続けている一人として、吉田さんへの心からの感謝の念が込み上げてきたのである。
国家の「死の淵」で闘い、「戦死」した男
吉田さんは、昨年2月7日に食道がんの手術を受け、回復するかにみえたが、7月26日に今度は脳内出血で倒れ、二度の開頭手術とカテーテル手術を受けた。
しかし、がん細胞は肝臓へと転移、最後は、肺にも転移し、太腿に肉腫もでき、肝臓の腫瘍はこぶし大になっていた。
そのことを聞いていた私は、「いつかはこの日が来る」ことを覚悟していた。吉田さんは暴走しようとする原子炉と闘い、過剰介入を繰り返す首相官邸とも闘い、時には、理不尽な要求をする東京電力本店とも闘った。自分だけでなく、国家の「死の淵」に立って究極のストレスの中で闘った吉田さんは、58歳という若さで「戦死」したのだと私は思っている。
昨年7月に脳内出血で倒れる前、私の二度にわたる都合4時間半のインタビューを受けてくれた。それは、あらゆるルートを通じて1年3カ月も説得作業を続けた末のインタビューだった。
初めて会った吉田さんは、184センチという長身だが、闘病生活で痩せ、すっかり面変わりしていた。吉田さんは、それでも生来の明るさとざっくばらんな表情で、さまざまなことを私に語ってくれた。
前述のように、あそこで被害の拡大を止められなかったら、原子炉の暴走によって「チェルノブイリ事故の10倍」規模の被害になったこと、そして、それを阻止するべく原子炉冷却のための海水注入活動を行い、汚染された原子炉建屋へ突入を繰り返した部下たちの姿を詳細に語ったのである。
官邸、東電上層部の命に反して、断固として海水注入を続行
吉田さんは、いち早く自衛隊に消防車の要請をし、海水注入のためのライン構築を実行させ、1号機の原子炉格納容器爆発を避けるための「ベント」(格納容器の弁を開けて放射性物質を含む蒸気を排出する緊急措置)の指揮を執っている。空気ボンベを背負ってエアマスクをつけ、炎の中に飛び込む耐火服まで身に着けての決死の「ベント作業」は、すさまじいものだった。
その決死の作業を行った部下たちは、私のインタビューに、「吉田さんとなら一緒に死ねる、と思っていた」「所長が吉田さんじゃなかったら、事故の拡大は防げなかったと思う」。そう口々に語った。自分の命をかけて放射能汚染された原子炉建屋に突入する時、心が通い合っていない上司の命令では、“決死の突入”を果たすことはできないだろう。
吉田さんは、彼らが作業から帰ってくると、その度に一人一人の手をとって、「よく帰ってきてくれた! ありがとう」と、労をねぎらった。
テレビ会議で本店にかみつき、一歩も引かない吉田さんの姿を見て、部下たちは、ますます吉田さんのもとで心がひとつになっていった。吉田さんらしさが最も出たのは、なんといっても官邸に詰めていた東電の武黒一郎フェローから、官邸の意向として海水注入の中止命令が来た時だろう。「官邸がグジグジ言ってんだよ! いますぐ止めろ」
武黒フェローの命令に吉田さんは反発した。「なに言ってるんですか! 止められません!」
海水注入の中止命令を敢然と拒否した吉田さんは、今度は東電本店からも中止命令が来ることを予想し、あらかじめ担当の班長のところに行って、「いいか、これから海水注入の中止命令が本店から来るかもしれない。俺がお前にテレビ会議の中では海水注入中止を言うが、その命令は聞く必要はない。そのまま注入を続けろ。いいな」。そう耳打ちしている。案の定、本店から直後に海水注入の中止命令が来る。だが、この吉田さんの機転によって、原子炉の唯一の冷却手段だった海水注入は続行されたのである。
多くの原子力専門家がいる東電の中で、吉田さんだけは、原子力に携わる技術者としての本来の「使命」を見失わなかったことになる。
最後まで現場で闘った「フクシマ69」
2011年3月15日早朝、いよいよ2号機の格納容器の圧力が上昇して最大の危機を迎えた時、吉田さんは「一緒に死んでくれる人間」の顔を一人一人思い浮かべ、その選別をする場面を私に語ってくれた。
吉田さんは指揮を執っていた免震重要棟2階の緊急時対策室の席からふらりと立ち上がったかと思うと、今度はそのまま床にぺたんと座り込んで頭を垂れ、瞑想を始めた。それは、座禅を組み、なにか物思いにふけっているような姿だった。
「あの時、海水注入を続けるしか原子炉の暴走を止める手段はなかったですね。水を入れる人間を誰にするか、私は選ばなければなりませんでした。それは誰に“一緒に死んでもらうか”ということでもあります。こいつも一緒に死んでもらうことになる、こいつも、こいつもって、次々、顔が浮かんできました。最初に浮かんだのは、自分と同い年の復旧班長です。高卒で東電に入った男なんですけど、昔からいろんなことを一緒にやってきた男です。こいつは一緒に死んでくれるだろうな、と真っ先に思いました…」
生と死を考える場面では、やはり若い時から長くつき合ってきた仲間の顔が浮かんだ、と吉田さんは語った。
「やっぱり自分と年嵩(としかさ)が似た、長いこと一緒にやってきた連中の顔が浮かんできましてね。死なせたらかわいそうだなと思ったんですね。だけど、ここまできたら、水を入れ続けるしかねぇんだから、最後はもう諦めてもらうしかねぇのかな、と。そんなことがずっと頭に去来しながら、座ってたんですね…」
それは、壮絶な場面だった。この時、のちに欧米メディアから“フクシマ・フィフティ(Fukushima 50)”と呼ばれて吉田さんと共に現場に残った人間は、実際には「69人」いた。
どんなことになろうと、俺たちが原子炉の暴走を止める―その思いは、事故に対処した福島第1原発の現場の人間に共通するものだっただろう。こうしてあきらめることのない吉田さんたちの格闘は、ついに福島が壊滅し、日本が「3分割」される事態を食い止めた。
津波対策にも奔走していた矢先に発生した大震災
吉田さんの死後、反原発を主張するメディアが、「吉田は津波対策に消極的な人物だった」というバッシングを始めたことに私は驚いた。それは、まったく事実に反するからだ。
吉田さんは、2007年4月に本店の原子力設備管理部長に就任した。その時から、津波について研究を続けている。
土木学会の津波評価部会が福島県沖に津波を起こす「波源」がないことを公表し、日本の防災の最高機関である中央防災会議(本部長・総理大臣)が、「福島沖を防災対策の検討対象から除外する」という決定を行っていたにもかかわらず、吉田さんは明治三陸沖地震(1896年岩手県三陸沖で発生、津波による犠牲者が約2万2000人)を起こした波源が「仮に福島沖にあった場合はどうなるか」という、いわば“架空の試算”を行わせた。これによって「最大波高15.7メートル」という試算結果を得ると、今度は、土木学会の津波評価部会に正式に「波源の策定」の審議を依頼している。
さらに吉田さんは、西暦869年の貞観(じょうがん)津波の波高を得るために堆積物調査まで行い、「4メートル」という調査結果を得ている。
巨大防潮堤の建設は、簡単なものではない。仮に本当に大津波が来て巨大防潮堤にぶち当たれば、津波は横にそれ、周辺集落へ大きな被害をもたらすことになる。巨大防潮堤は、海の環境も変えてしまうので、漁業への影響ほか「環境影響評価(環境アセスメント)」など、クリアしなければいけない問題もある。
吉田さんは、津波対策に「消極的」どころか、その対策をとるため、周辺自治体を説得できるオーソライズされた「根拠」を得ようと、最も「積極的」に動いた男だったのである。
しかし、その途中でエネルギー量が阪神淡路大震災の358倍、関東大震災の45倍という、どの学会も研究機関も予想し得なかった「過去に類例を見ない巨大地震」が襲った。福島第1原発の所長となっていた吉田さんは、自らの命を賭けてこの事故と闘った。
吉田さんのもと、心をひとつにした部下たちが放射能汚染された原子炉建屋に何度も突入を繰り返し、ついに最悪の事態は回避された。吉田さんが、「あの時」「あそこにいた」からこそ、日本が救われたのである。
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国はどんなことでも都合が悪いことは真実を隠し、政治家はさらに嘘をついて誤魔化すので、この方法しか「国民に事実を報道する方法がなかった」ことをご理解の上、次に起きる有事の際は自己責任で対応して下さい。
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原発が発生した2011年3月11日当日にすぐ、「東京電力の社長から指示」が出て、東京電力の課長以上はすぐに「福島県から撤退命令」が出て、「東京電力の責任」にならないように下請けの会社の責任にしたことも「盗聴マイク」のおかげで確認できています。
最後の最後まで「東京電力の責任逃れ」がテレビで流れましたが、全ての東京電力の賠償責任の金額は、「下請けの会社に押し付けた事実」さえ、マスコミに真実は一切、流れませんでした。
「下請けの会社」は多くの社員を投入して亡くなった社員もいたのに、東京電力は「一切の賠償責任を下請けのせい」にして、損害賠償も下請けに払わせた結果、「多額の借金を抱えて首を吊った下請けの社長」も一人いたことを国民は覚えておいて下さい。
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2011年3月11日当日、私は羽田空港内に缶詰になっていたのでクレジットカードルームに避難してテレビで福島原発の様子を見ながら「自分にできることは何か?」を考えた結果、翌朝一番に電車が動いたあとすぐに、「別班」に電話して、東京の宇宙博物館にある「宇宙服」を1着だけ借りて自衛隊の「高速ヘ」リを無許可で操縦させて私を迎えに来させました。
自衛隊の「高速ヘリ」で、メルトダウンが起こっていた「福島第一原発」の中の高濃度被曝量の「立ち入り禁止地区」に入り、宇宙服を着ながら動かなくなっていた「ラジコン」を操作したり、「被爆計器の数値」を読んだりしましたが、どこにもそんな記録は残っていませんし、もしあったとしても私の部下たちが全て消しているはずです。
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福島第一原発内部で作業していた現場の作業員たちにも心配されましたが、「この服はNASAの宇宙服だし、俺は不死身なので死なないから大丈夫だ!」と伝えて、疲れ切った下請けの作業員たちの代わりに、被曝量が多い建屋の奥で重要な作業をさせてもらいました。
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いくら宇宙服でも「被ばく線量」はすごかったようで、頭がフラフラしてきたので作業を終えて事務所に戻ると、他の作業員たちがたくさん被曝して苦しんでいたので、2リットルのペットボトルの水に「私の意識と血液」を入れて被曝した作業員たちに飲ませると痛みが消えて楽になっていきましたし、被曝量を測定すると下がっていました。
だからすぐに、あるだけのペットボトルの水にカッターで指を切って血液を入れて飲ませたあと、「薄めても効果があると思うからたくさんの人に飲ませて被爆線量を下げて下さい」と伝えたあと、私が意識を失ったので、「別班」が東京まで送ってくれました。
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その日は、東京都内のホテルで休ませてもらいながらベットで休んでいると、刻々とテレビで福島の映像が流れていたので、第二建屋と第三建屋の炉心棒が見えていたので、「防衛省の特別統合幕僚長」として私の命令を聞いてくれる退職した現場のトップ(伍長)の元自衛隊員の携帯電話を思い出したので、電話でこう伝えました。
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いいか、福島の現地の責任者へ電話して、「お前が、自衛隊の幕僚長」だと言い張って、福島原発のメルトダウンの爆発で「爆発性のある油」が出ているかどうかを聞いてくれ!
もし、そういう油があれば爆発するので出来ない作業だが、危険な油がないのなら「海水」を汲み上げて、自衛隊の特殊ヘリコプターのサーモグラフを見ながら、熱くなっている場所に「海水」を放水してくれ!
しかし、一歩間違えれば「水蒸気爆発」でヘリコプターが爆発するので、この任務に耐えられる覚悟がある自衛隊員だけでやってくれ!
頼むぞ!
それにきっと、この指示に従った自衛隊員は、後からバレて処罰されると思うが、その覚悟がある人間だけでやってくれ!
俺は、お前たちの上司であったことを心から感謝する!!!死ぬなよ!!!
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すぐに動いてくれた日本の自衛隊員たちのおかげと、防衛省が重い腰を上げて動いてくれたおかげで、福島の原発の温度は海水で温度が下がり緊急処置は済みましたが、いまだに「炉心棒は燃えているので危険」です。
「一度、核爆発が始まった炉心棒を止める科学技術は日本には無い」ので、私は消せないと言われている核融合を止める方法を見つけたので日本の科学者たちに拒否された「核融合を止める特別な薬剤」を海水に混ぜさせて私の部下たちに落とさせたおかげで核爆発を鎮火させることができました。
現場で、2号機、3号機、4号機の注水作業をしてくれた自衛隊員は被曝していますし、「統合幕僚長の上官命令」を無視して処分を受けた自衛隊員たちよ、本当にありがとうな!
お前たちの作業のおかげで、福島県の人たちは生き残ったんだぞ!
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あとで被曝した自衛隊員たちに、「別班部隊」が私の血液をタップリ飲ませてあげたので、被ばく線量は下がったと思いますが、会ってお礼を言えないことにお詫びします。
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夕方、関東の仲間たちとの「情報交換会」までに作業して戻ってくれたことに心から感謝しました。
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3月12日の早朝に、バカな第94代 菅直人総理大臣は、翌日の12日の早朝に現地の福島へ行きましたが、ただ邪魔をしただけで、最も悔し涙を流していたのは仲間を数名失った自衛隊員たちでした。
「たった一言、すまなったな」と言ってあげられないほどバカが首相だったので、世界の首相も国王たちもテレビで実況中継を見ていて、「日本国民は心の底からかわいそうだ」と私にたくさん電話をくれた人たちいたことも覚えておいて下さい。
日本の信頼と愛国心をボロボロにした菅直人首相の馬鹿野郎!!!!
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2024年に起きる大地震と大津波を、国はどう対応するのでしょうね?
国民は、国を期待しないで自分で考えて生き残って下さい。
以上が、無償で「防衛省の特別統合幕僚長の最後の仕事」でした。
そのあと、東京都知事の小池百合子に「国家反逆罪」の書類にサインしたので、全てのやる気を失い、自分で「記憶を消す薬」を飲んで、全てのことは忘れてしまいましたが、昨年、全てのことを思い出し始めました。
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日本の「3・11」という日付と、アメリカの「9・11」の日付には何かあると思いましたが、2024年3月11日も、どうぞ、ご注意下さいませ。
以上、元防衛省 特別統合幕僚長の14年前の体験談でした。