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【防衛省】1977年に18歳で「陸将補」になった経緯

1977年(昭和52年)4月に、岡山理科大学の情報処理科に「大型スパコン」がたくさんあったので、先生に頼まれてスパコンを修理した結果、防衛省の鮫島博一海将「統合幕僚会議議長」が私に会いに来て下さいました。

 

私が防衛省の最も重要なコンピューターを触るためには、上から3番目に偉い「陸将補」という「位」にならないといけないらしいので、簡単な筆記試験を受けて資格とバッチを頂き、当時の「六本木の防衛省本部」に何度も通いました。

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1997年10月に「統合幕僚会議議長」の交代が決まっていたので、次の統合幕僚議長になる「栗栖弘臣陸将」と二人で岡山県まで私に会いに来て下さり、お酒を飲みながら「日本の今後の防衛」に対していろんな意見を言わせてもらいました。

 

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六本木にあった「防衛省のコンピューター室」は、とても幼稚なレベルの人ばかりだったし、誰も「FortranやCOBOLのコンピューター言語」を勉強している人はいないし、ましてや「ハードプロググラム」を組める人間は一人もいなかったし、「必要なら外注すればいいだろ!」と言ったので30代、40代の部下たちに怒鳴りつけて全員をコンピューター室の部屋から出しました。

 

もし、「外注先」から防衛省の情報が漏れた責任は誰が取るのかわかっているのか!!!

 

お前たち全員、クビにするぞ!!!この部屋から出ていけ!!!

 

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誰もいなくなったコンピューター室で、たくさん並んでいる「IBMコンピューター」のハードプログラムを覗いて見ると、いろんな問題をたくさん見つけました。

 

そこにいた自衛隊員が遊んでいた無料ゲームにも問題があったし、使っているソフトや裏のハードプログラムにも変なプログラムがあったし、外部からの攻撃に対する「セキュリティシステム」も無いうえに、「誰が情報をコピーしたかの記録」も残せないレベルだったし、自由に誰でもコンピューター室に出入りできるしうえに、全員が自分のメモリースティックでパソコンからデータをコピーして持ち出していたので唖然としました。

 

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すぐに、鮫島博一海将を呼んで、「防衛省のコンピューターに関する全てのルールをこれから作りますのでメモしてすぐにやって下さい。」とお願いしました。

 

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その時からコンピューター室に出入りする人の「家族調査」もしたし、情報を抜き取る可能性がある左翼思想の人間が家族にいないかの調査も行いながら、一人づつ配置転換して「コンピューター室」に新しい鍵をつけて「許可なく入室禁止」にしてもらいました。

 

残ったのは、23歳の大学卒の若い女性一人だけだったので、お茶汲みと、私が指示したことだけやれるように教えた結果、当時の一番優秀な部下として育ったので、私の権限でどんどん昇格させてあげました。

 

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防衛省は年齢でもなく男女でもなく「階級が全て」なので、出世した若い彼女はどんどん男たちから「先生」と呼ばれるようになり給料もたくさん出たのでよくご馳走してくれました。

 

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私は18歳、彼女は23歳、そこに高卒の若い自衛隊員の中で親族に問題がなく、日本への愛国心がある人間だけを選んでコンピューター室に入る「特別なセキュリティカード」を作って極秘情報を守りながら、コンピューター室の部屋の奥に「サイバーセキュリティ対策室」を作り、私を含めた3人しか出入りできないように変えました。

 

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それまでコンピューター室に出入りしていた多くの自衛隊員は、結局、中国やアメリカから賄賂をもらって「日本国の防衛情報」を盗んでいた人たちだとわかったので、処分は、鮫島博一海将統合幕僚議長に任せました。

 

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1977年から1982年まで防衛省を何度も出入りしたので、「私の顔と名前」を覚えてくれた人も多かったし、常に、どこにいても「敬礼をされる立場」にいたので照れましたが、23歳でスーパーのダイエーに入社しても、よく電話が来たので休みの日に防衛省まで1泊2日で行って問題を改善していました。

 

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一円も給料をもらっていないことは誰にも言ってませんが、防衛省の壁に「サイバーセキュリティ室 室長 吉岡学陸将補」と張り出されていたので、よく先輩自衛官から「陸将補!!奢って下さいよ!」とたかられるので、「このコンピューターゲームに勝ったらね」と自分が作ったゲームをやらせると、食事も忘れてほとんどの人がハマりました。

 

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「防衛省」に入る人間はいろんな理由で入隊しますが、絶対に負けたくない「強い心」がないと続かない仕事だし、そういうふうに訓練されているので、「戦いゲーム」には絶対に全員がハマるのをわかっていたから「戦いゲーム」を攻略できずにいつも先輩の皆さんに奢ってもらいました。

 

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「絶対に勝てないゲーム」を作ったおかげで、30代の頃に「京都12人会」の社長たちに出会った中に、任天堂の社長がいたので私のゲームソフトをタダであげましたが、お礼はひとつもありませんでした。

 

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さすが、セコイわ、京都人!!!

 

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1990年に31歳の私が世界を飛び回ってアメリカ国防総省(ペンタゴン)やNASAとの揉め事を解決した件数はとても多いので、自然に防衛省のトップの「統合幕僚長」より上の「特別統合幕僚長」に任命されたのも自然の流れでしたが、タダで働いていたし、ダイエーは2つの会社に所属することを禁止していたので誰にも言えませんでした。

 

 

ですので、現在の「防衛省のサイバーセキュリティのルール」や「セイキュリティ基準」は、全て私が作ったことは当然だとわかると思います。

 

 

部下への教え方は、小学生時代にクラスでやった「子供先生の授業」と同じように私が教えた二人の部下が「他人に教えられるレベル」まで引き上げてから、また新しい新入生に一から防衛省のコンピューターを教える「マニュアル」も作ってあげたので、今の「防衛省マニュアルの基本」は全て私が作ったものです。

 

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まあ、「平時(へいじ)はいいですが、「有事(ゆうじ)になれば、きっと、どこにいても「別班(VIVANT)」が私を見つけて迎えに来ると思いますので、今、お伝えできることだけブログに書いています。

 

戦争という「有事」になればブログを読みたくても全てのネット回線も通信手段は全て遮断されますし、電気もインフラも強制停止しますので、どうぞ、「自己防衛」は自分で考えてやって下さい。

 

そ一人一人の不満に答えれるほど、防衛省は暇ではありませんし、人員は不足していることをよく考えて自分責任で対応して下さい

 

みなさんはよく「自由や権利」を主張しますが、「自由」には「責任」がついているので、全て「自己責任」で考えて生きて下さい。

 

 

「有事」になれば、誰もあなたのために死のうなんて人はいないはずです。

 

だって、大人の皆さんも含め全員が、わがまますぎで「平和ボケ」してている結果ですので、自分のことは自分で解決して下さい。

 

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もし、突然、あなたの周りの韓国人や中国人が殺しに来て、拳銃やマシンガンを手に入れたとして、あなたは敵を撃ち殺せますか?

 

 

泣き喚いて逃げ回ったあげくに誰かのお世話になると思いますが、誰があなたやあなたの家族を助けてくれるのですか?

 

親はどこにいますか?祖父母や親族はどこで何をしていて、あなたのことを守ってくれる人なのでしょうか?

 

 

都会にいる人たちでお金を持っている人はたくさんいますが、「有事」になれば、お金だけでは命は守れません。

 

それが、「有事」です。

 

平和ボケした皆さん、さようなら!!!

 

 

最後に、私がとても仲良くなった栗栖弘臣統合幕僚議長は「超法規発言」という扱いを国から受けて辞任することになりましたが、このキッカケは、私と飲み会で話したことがキッカケでした。

 

吉岡)どうして、日本の自衛隊は銃弾を受けてからしか反撃できないのですか?

 

それじゃあ、現場の自衛隊員はいくつ命があってもたまりませんよ!

 

栗栖弘臣統合幕僚議長、どうにかして下さい!

 

と私が言った言葉が引き金でした。

 

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栗栖弘臣統幕は「超法規発言」により辞任に追い込まれた事件

「栄誉礼」を受け防衛庁を去った当時の栗栖弘臣統幕議長(上)=1978年7月、

 

儀仗隊の前を歩くトランプ米大統領と安倍首相(下)=2017年11月

 

引き際の潔さは語り草だ。

 

自衛隊トップ、統合幕僚会議議長だった栗栖弘臣氏が「超法規発言」で事実上解任されたのは40年前の1978年7月25日だった。

 

「敵の奇襲攻撃を受けた場合、首相の防衛出動命令が出るまで手をこまねいている訳にはいかず、第一線の部隊指揮官が超法規行動に出ることはあり得る」とメディアに発言したことが問題となり、金丸信防衛庁長官(当時)に更迭された。

 

辞める理由を記者から問われ、「長官の信を失ったからです。信任を失った以上、辞任することにしました」。

 

シンプルな物言いに、ある種の覚悟がにじみ出ている。

 

筆者はそれから20年余り後、栗栖氏に直接何度か取材した。40年という節目を、今の時代と比較して考えてみたい。(共同通信=柴田友明)

 

「法律書を抱えて戦えない!」

 

以前、【特集】「QBつぶせ」で連想した「敵を殲滅せよ」で、ミグ25事件(1976年)を取り上げた。

 

ソ連のミグ25戦闘機が北海道の函館空港に強行着陸した際、陸上自衛隊がソ連側の破壊工作を警戒して正式な命令がないまま「応戦準備」をしたという話だ。

 

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実は、この1976年にミグ戦闘機が函館空港に着いた時、栗栖統合幕僚議長から電話があり、「吉岡さんの意見を聞かせて欲しい」言われたので、こう答えました。

 

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吉岡)ソ連軍の兵士が強制的に函館空港に来た理由は、当然、ソ連を逃げ出して、日本に「亡命したいはず」なのですぐに身柄を隠して下さい。

 

それと同時に、国の官僚や政治家たちがごちゃごちゃ言ってくると思うので、そんな言葉は無視して、世界一早い「ミグ戦闘機」を解体して防衛省の最高の技術者たちに設計図を起こさせて日本でも「ミグ」を作れるようにして下さい。

 

政治家はゴチャゴチャいう割に何もしないので、今の統幕に上手に交渉を長引かせてもらって、その間に全ての部品の設計図と、材質と重量と鉱物の比重を動画で記録に残して下さい。

 

きっと、いつか、ソ連のミグ以上に早い戦闘機を作れるチャンスがあれば、私も協力したいです。

 

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この会話のおかげ、しっかり、「ミグ戦闘機」を全部バラして記録に取ってからロシアにお返ししました。

 

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最初に函館空港に降りた「ロシア兵」は、必ず、ロシアに戻ると殺されるので、迎えに来た新しいロシアのパイロットの飛行士にお金を渡して、最初に来たのロシア兵は「撃ち殺した」ことにしたし、帰りに持って行くはずのミグ戦闘機も自動操縦にして、日本の空域を出た時に日本の戦闘機のF15で爆撃して破壊しました。

 

だって、当時、日本にはない技術の部品があると聞いたので、それを外してあることがバレると問題になるので、これで一件、落着です。

 

 

どうせ、「敵が撃つまで反撃できない法律」を守り続ける日本国民ばかりなので、こんなことくらいはしないとねえ!!皆さん!

 

もう日本の防衛省には、ロシアのミグ戦闘機以上に早い戦闘機はたくさん私が作って配備してありますので、ご安心下さい。

 

まもなく「有事」、つまり、戦争が日本へ飛び火しますので、どうぞ、日本国民の皆様、御覚悟下さい。

 

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「一般社団法人共同通信社」の記事の続き

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この流れで、法制上の「穴」の放置にしびれを切らせて、2年後に制服トップによる「超法規発言」があったとも考えられる。

 

すでに、77年に福田赳夫首相(当時)の了承の下で、立法化を前提としない有事法制の研究が始まっていた。

 

その後、「集団的自衛権」の行使を可能にした2015年の安全保障関連法成立まで法整備が進められたことは周知の通りだ。

 

筆者が栗栖氏をインタビューしたのはその途中、有事関連法案が閣議決定した02年4月だった。

 

意外にも栗栖氏はその法案に批判的だった。

 

「あいまいで分かりにくい。本気になって考えたのだろうか…」。

 

都内の喫茶店で理路整然と語り始めた元制服トップは当時82歳。

話しぶりは50代に思えた。

 

 

自衛官が反撃できる法案の条件が「事態に応じ合理的に必要と判断される限度において」と定義していることについて、栗栖氏は「修飾語が多く、何が言いたいのか。法律書を抱え、確認しながら戦うわけにはいかない」とばっさり切り捨てた。

 

一線の指揮官の心情を代弁、安全保障と向き合っている姿勢は現役時代と同じではなかろうかと筆者には思えた。

 

原点語った元制服トップ

 

1980年代半ばまで自衛隊トップの大半は、旧軍時代の陸軍士官学校、海軍兵学校などの出身者。しかし、栗栖氏は東大卒の内務省出身。警察予備隊時代に入隊した異色の経歴だ。筆者のさまざまな本題以外の質問に快く答えてくれた。

 

自身の原点は、終戦後、連合軍に身柄を拘束されたインドネシアの戦犯収容所での経験と語った。法務担当の海軍士官だったことから戦犯裁判で弁護人を務め、多くの戦友の死と直面したという。

 

「日本に軍隊が無くなったから、仕返しされ、こんな目に遭う。悔しい」

戦犯に問われ、過酷な扱いを受け、処刑された戦友の言葉はずっと耳に残っているという。

 

「負けたらすべてゼロになる。戦争の被害は勝ってから国がしっかり補償すればいい」。

 

退官後はタカ派の言論人としてならし、その言動は「制服組にも国会答弁の機会を与えるべきだ」「文官は部隊編成に口を挟むな。シビリアンコントロールにも限界があっていい」。

 

正直、筆者は納得できないことも多かったが、自分の言動に真摯に向き合っている人物に思えた。

 

ひとつ印象的に残ったのは、将来、韓国と北朝鮮が統一された際、統一国家として核兵器を保持した場合に日本はどうすべきか具体的に選択肢を示して話していたことだ。その視座は常に未来にあったのかもしれない。

 

栗栖氏は2004年7月19日、84歳で亡くなった。さまざまな問題に組織のトップの進退が話題にされるが、彼の潔さは今の時代に欠けたものかもしれない。

 

後任に引き継ぎをする栗栖議長=1978年7月

© 一般社団法人共同通信社

 

 

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