【労働組合】人生の「ロジスティクス戦略」は持っていますか?
焼け野原の中で、「闇市」を開いて、物を売った中内功社長がおこしたダイエーという会社のサラリーマン時代に勤めた会社の最大の武器は、「ロジスティクス」でした。
●ウイキペディアではこう書かれていますが、実は違います。
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本来、「ロジスティクス」は「軍事用語」で、どこの国も自国を守る「軍隊」を持った時に、どう軍隊を動かすかを戦略的に学ぶための「戦争の学問」なのです。
そして、この「ロジスティクス」は、国別に戦略が違うため、世の中に実態が出ることはありませんし、もし、誰かがどこかの国の「ロジスティクス」を公開した途端、その人が消されるだけでなく、情報を手にした全ての人たちが抹殺されるほど、国家を守るためには最も重要な情報なのです。
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ウイキペディアに載っている「流通科学大学」は、私が勤めていたダイエーの持ち物ですし、国をあげて「戦略的に日本の未来を考えられる人間を創出するため」に、当時の中内功会長が100%私財を投げ打って、大阪に作った大学です。
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私が勤めダイエーのお店の「マネージャー(課長職)」になるために「三週間の缶詰生活」をした「教育施設」が「ダイエー流通科学大学」ですし、あらゆる分野の「教育」をされましたが、当時は、日本全国の企業の精鋭部隊や、自衛隊、消防隊、警察官、ヤクザなどの「軍事的な教育」の根幹の概念を学ぶための大学として活用されていました。
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表では「流通業の物流改革を学べる大学」として有名になりましたが、実態は、日本の「国防」を守るために、アメリカに潰されない「左寄りの教育」に影響を受けないための大学として、当時の首相と中◯功会長が話し合って作った大学でした。
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日本の歴史の実態を調べるとわかりますが、「西は天皇」を中心として国家を収めるための重要なポストの人材育成のために「京都大学」を作りましたので、現在の国を動かす「官僚」と同じ勉強をしていました。
江戸幕府を「武力」で脅し、「無血開城」して明治政府を作った国の経営陣は、「東」に同様の目的で「東京大学」を作り、現在の国を動かす官僚たちの人材教育をして、現在に至っています。
ですので、一般庶民がどうあがいても、国を動かす「ロジスティクス」の仕組みも、国家を運営する「人材教育」もされていませんので、政治家たちだけが「法律を作る権利」を有しているのは、当然なのです。
なので、「憲法をどうのこうの」言っている人は、自分が政治家になって、憲法を変えられるほどの「国会議員の過半数の人数」の政党にならない限り、日本国の「国防」と、「経済の発展」と、「生き残り」を真剣に考えている人など「実際にはいない」ということを皆さんも理解して下さい。
「国家を運営」するには、みなさんが信じたいことだけではできないほど、あらゆる汚い方法を使って日本を奪いにきている国々がありますので、「日本国籍」を持っている意味を「自覚できる日本教育」が、必要だと気づいて欲しいのでお伝えしています。
「国防」とは、武器を打つことだけではありません。
情報を集め、分析し、今後、100年間、この国が存続するために必要な人材、教育、そして、他国と戦える「情報」を持っている人間だけが、生き残りを考えて行動できる「人材育成」こそ、「国防」なのです。
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今では「経済」に関わる人たちには「普通の言葉」になりましたが、当時は、日本で初めて、スーパーが、「ロジスティクス事業」にチャレンジしたと経済誌(日経流通新聞・東洋経済誌)に公開されたほど有名になりました。
「ロジスティクス」は軍隊用語で「補給物資供給システム」と呼ばれていたものを、販売する商品を安全にいくらでも供給できる「システム構築(戦略・戦術)」のことを言い表す言葉として現在の「物流システム」を構築しました。
当時の流通業界は「スーパー」と言えば、田舎で雑貨と食品をたくさん販売しているお店のことを言いましたが、「流通業」という新しい事業名を国に認めせたのも、「経団連の会長」なっていたことが大きな要因でした。
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ここで、株式会社ダイエーのサラリーマン時代の「私の略歴」をご紹介します。
23歳(1982年)4月 北海道ダイエー入社、5月ダイエー清田店の日用品課のオープン人員として店舗で教育を受ける。
27歳(1986年)10月 ダイエー麻生店の玩具売り場に転勤転課、マネージャー代行。
28歳(1987年)10月 苫小牧店玩具売り場の新任マネージャー(課長職)として着任。苫小牧支部の「労働組合 副委員長」を兼務。
29歳(1988年)10月 苫小牧にいる時に「北海道ダイエー労働組合中央執行委員」に昇格し、「苫小牧全企業労働組合」の合同パーティーに参加し、「苫小牧 港湾関係労働組合委員長」と懇意の仲になる。
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30歳(1989年)1月 ダイエー苫小牧店からダイエー札幌店日用品・文具・玩具課に転勤になり、「ゼンセン同盟 流通部会 全ダイエー労働組合 北海道ダイエー労働組合」の「前委員長」から「裏職務」を引き継ぎ、「表の委員長」とは別の人たちに合わされて、毎日のように飲み会で様々な分野のお偉いさんたちと「顔繋ぎ」をする。
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同時に、国の官僚の仕事を無償で手伝うようになり、「外務省、財務省、農林水産省、厚生労働省、防衛省、内閣府」の仕事で世界を飛び回り、多くの条約を結んだので、6つの「特別職上級国家公務員」の資格認定を受けましたが「全て無償」です。
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当時、「元委員長」から「裏職務」を引き継いだあと、「裏家業」の人たちが「ヤサ(自宅)を見つけて脅しに使いたい」退社後の私を付け回しているとすぐにわかったので、必ず、違う地下鉄の駅で降りてスーパーを2、3ヶ所を出入りして、二人組の男たちを巻いてからしか家に帰れない生活が3年間、続きました。
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ススキノからタクシーで帰る時も、わざわざ大回りしてもらって、道路を2、3本、手前で止めてもらってから「24時間スーパー」の従業員出口から出てから、ヤサ(自宅)に戻る生活をしていました。
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表は、「スーパーの店員」、裏は、「全く違うジャンルの仕事」を個人的にいくつも任されたので、とても息苦しい生活でしたが、その分、北海道だけでなく、全国の有名な一部上場企業の社長たちと名刺交換をしたり、全ての政党の政治家に会ったり、世界の首相や国王たちに会う機会がたくさんありました。
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当時は、毎日100枚の名刺を持ち歩きましたが、無くなる時は一晩で無くなるほど、会う人数が多いので、「私の名刺と名前」は自然にいろんな人たちの手元に広がり、全国でも有名な政治家たちにも直接、会う機会がたくさんありました。
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そんな仕事をしている時に、東京で「直接、会えない人」と「壁を通して話す体験」をしたほど、お互いに知っていることが問題になるほど、ヤバい人たちとの接点もありました。
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ですので、昼間に仕事をしている最中にいろんな人たちから「呼び出し」があり、全く知らない会社の社長たちから社内の問題や、取引先とのトラブルの問題解決をする「社長会」も、私の仕事になりました。
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「どうしても会って話したい」と言った社長の場合、部下に市場調査(市価調)に行くと言って、何人もの年配の社長たちに会わされて、「問題の解決方法」をアドバイスしていました。
お店に戻る時は、もう、昼間の仕事が終わっていて、「業務報告」を受けるだけで、「作業指示」さえ一切、出さない「売り場のマネージャー」でした。
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「北海道のダイエー労働組合中央執行委員」は7名いましたが、表の三役の「委員長、副委員長、書記長」の3名がいるのが通常ですが、その下に、売り場にいる「マネージャー業」を兼務しながら組合業務をする「平中執」が4名いましたので、私が「平中執」のトップとなって、「平」の中央執行委員4名の意見を取りまとめる責任もありました。
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毎年、11月半ばから週に1回、「呼び出し」がかかるので、苫小牧から業務を終えたあと、車を飛ばして「午後9時」から始まる「組合の会議」に出席し、終わるのは夜中12時を過ぎる日が増えたうえに、昼間の業務が「オモチャ売り場」だったため、平日の5倍近くの売上を作る物量と人員配置に追われながら「組合業務」をこなしていました。
その頃、「立って寝る」ことができる自分になっていたので、常に、意識朦朧としながらも「答えは即答」で答え、結論に導かねばならない立場だったので、家に帰って寝る時間は3時間が精一杯でした。
12月に入ると、毎週、売上が2倍づつに上がるので、閉店後の業務が多すぎたので、組合事務所に連絡して「会議に遅れる」と言うと、
「そんなことは許されない!
何があっても、どんなことをしてでも、時間に間に合わせろ!」
と怒鳴られるほど、厳しい立場にいました。
「お前、もし、自分の親が危篤なっても、そんな言い訳をするのか!!」
と委員長には脅されますし、「組合の業務」は、全ての業務の中で「最優先事項」なので、もし、会社の中で問題が起きた場合、そのことを追求した相手を「即座に全国へ飛ばせる人事権」があることを、何度も、実際に、経験させてもらいました。
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「業務指示」は、どこの会社でもあることですが、期限と仕事の内容を伝えられて、「いついつまでに終わらせろ!」と言われるのが普通ですが、組合の「業務指示」は全く違います。
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「いついつ、会社のトップと「労働環境の改善」についての会議」があるので、それまでに自分の意見をまとめて報告し、3名の上司に許可を取れ!」
という指示なので、言い訳など、一切、通用しません。
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自分がいるお店の問題点を全て調べて書き出して、誰がどれくらい作業が勤務時間に負担がかかっているのか、また、それに対して、上司はどう対応しているのかを、お店の全部の課別の「労働環境問題」を報告するのが、「最低ランク」の仕事でした。
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その上の仕事は、自分でお店の店長・次長・課長たちと、どういう話し合いの場を作ったのか?
その結果、「現場の問題」はどれくらい解決したのかを徹底的に責められますし、一切の「言い訳」はできません。
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売上がピークの時期であろうと、従業員が急に辞めたとしても、「労働環境の低下」を認めることになっては「労働組合の存在理由」が無くなるので、自分の売り場の作業指示を出したあとは、一切、途中報告もしなくて良いから、
「必ず、期限内で仕事を終わらせるために何をするべきかを考えて行動しろ!」
と社員全員に教え続けました。
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もし、「自分の部下を指導するができない」と判断された人間は、その段階で「労働組合の役員」を降ろされますし、もし、会社とトラブルになって自分で解決するための努力をしていない場合、つまり、「現場の問題」を自分で解決できない人間は、会社の「人事課長」も、「労働組合の幹部」も認めないので、文句を言えば、即、全国へ飛ばされた時代です。
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戦う前に、弱音を吐くな!!!
戦いが始まったら、相手を殺す覚悟で戦え!
もし、負けそうになったら、どんな手を使ってでも、絶対に、勝ち取れ!
これが、当時の全ダイエー労働組合中央執行委員同士の「掛け声」でした。
つまり、「戦争」と同じだったのです。
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会社は「競合ライバル」の会社と「お客の取り合い」をしていますが、労働組合は、その仕事をする「社員の生活を守る役目」を担っているので、ある意味、「会社の人事課」と同じ仕事をすることもありますが、トップダウンで指示を出せない弱い立場の「パート、アルバイト」の人たちの勤怠管理も、私の仕事でした。
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つまり、「人事課と同じ業務」をしながら、会社の立場では「売り場のマネージャー」をこなし、人事課と会社を突き上げる「現場の問題点」をいくつも列記し、その「対応策」を店長や課長たちに突き付ける役目をしていたのです。
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当時、各店舗の売り場に配置された「5名の中央執行委員」たちは、誰もがお店の中の問題をいくつも抱えていましたし、「人事課長」でもできない仕事を手伝う場面も多かったので、全ての「問題を定義」し、そして、その「改善提案」を同時に出せる思考回路を、徹底的に訓練されました。
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これも、戦争に勝ち続けた「日本軍の強さ」の秘訣で、言われたことだけやる「公務員気質」や、時間だけ過ごせばお金が出ると思っている「サラリーマン気質」とは違い、課長や店長に求められるスキル以上が常に要求されるため、様々な勉強を自分で身につけていかないと、即、クビになる立場に3年間、在籍しました。
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「給料」は、一般社員と変わらず、「組合の出張旅費」もわずかですが、個人同士であっても「月に3万円」までの「接待交際費」が組合から認められていたので、会社以外の人たちとの飲食は、そのお金がまかなう必要があるのですが、毎日のように会う人の人数は増えるし、問題を抱えた社長たちの調整には時間がかかるため、毎月、3万円の飲食代はすぐに無くなり、自腹を切ってでも、私は人のための仕事をやり続けていました。
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実際は、「表の委員長」から言われる仕事以外に、「裏の委員長」=(元委員長)からの指示もよくあるため、私は「裏の書記長」と任命されたので、「表のマネージャー業」と、「表の中央執行委員業務」と、「裏の書記長業務」の3つの仕事をしていました。
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毎日の睡眠は、1時間半に減り、会社以外の人に会う人数もどんどん増えるので、倒れるか病気にならなければ、休むことなどできませんでした。
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一切の休みの計画が立てられない理由は、家族と一緒に過ごしても、「急な呼び出し」が入るので、日本全国どこにいても、「3時間以内」に組合本部に集合しなければいけないため、実際の組合業務がどれほど大変なのかを知っている人は、家族でも知り合いでも誰もいませんでした。
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「自分の親」が死ぬ時以外は、一切、このルール以外は認められないため、生きる時間の中で、最優先事項が「労働組合中央執行委員」の仕事だと、妻にも言えない仕事をしていた3年間でした。
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33歳(1992年)10月 「全ダイエー労働組合 中央執行委員」を退任し、札幌店の売り場に戻ると「6等級の店長クラスの資格」になったので札幌商品本部に転勤になり東北海道スーパーバイザー(SV)として勤めて、東京にあるダイエー商品本部のSVを経験したあと、マーチャンダイザー(MD)となりながらも同時に国の仕事を裏で手伝ってから37歳(1996年)にダイエーを自己都合退職しました。
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2022年の今、なぜ、30年前の忘れていた「自分の体験談」をみなさんに伝えなければいけないかを天に問うと、「これからのために必要だから」としか教えもらえません。
そのために、1日の連続睡眠時間は3時間以内なので、小刻みに寝る習慣が身に付きました。
「時間がない」のは、誰もが同じですので、それを言い訳にしないで下さい!
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今、自分がやるべきことに気づいて行動していますか?
「いつか」と思っていることは、決して、「実現しないこと」だと私は身に染みて知っています。
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今、自分が思ってすぐに取り組まない人間は、「いくら時間があってもできない」と私が出会った経営判断をする人たちは、誰もが同様に言い切ります。
今、ある仕事がなくなるとか?
今の、給料がなくなるとか?
急に、クビになってしまうとか?
そんなことを考えて仕事している人がいないほど「平和ボケ」している日本人だからこそ、2020年に世界はコロナウイルスを通して、真剣に人生の計画を立て直す「必要性」を気づかせてくれました。
だからこそ、私は「コロナチャンス」だと最初から言い続けていたのです。
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「先を見据えて生きていない人間」を誰も救うことはできません。
20歳を超えて、自分で生きたいように生きている人間全ては、その責任を自分で取らなくてはいけない時代に、もうなっているのです。
今から3年後の「2025」年に、自分がどうなっているかを描けていない人は、「もう選択権はない」と思って下さい。
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人生を大きく変えるためには、「三つの出会い」が必要です。
●自分の将来において必要な「情報」の出会い
●自分の将来において必要な「人」の出会い
●自分の将来の終着地のための準備
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あなたに、このチャンスが訪れることを祈ってお伝えしています。